何しろ、大学も芸術学部に進んでいたので、コンピューターの専門教育は受けたことが無い。コンピューターの学校でコンピューターの事を教えるなんて、ちょっと敷居が高すぎると思ったのだ。
大抵のことでは悩まない私であったが、さすがに責任の重さが違う。
「どうしても見つからない場合は、考えますね」
と、答えた。そうこうしているうち人材が見つからず、結局やる事になった。
そこで、初年度は私一人ではなく、友人のクリエータ達と交代でやることにした。それぞれ現場の第一線で活躍している人たちだ。
彼らとやることで、一定のレベルを確保でき、なんとか状況が分かった。これなら出来るかもしれない。マルティメディアというジャンルは今はもう死語だろう。コンピューターの処理能力が上がってきて、画像、映像、音響が扱えるのは当たり前。しかし、その時代にはまだ、技術が進化している途中であって、今のYoutubeのようなサービスなど夢に過ぎない。
正直この展開は読めなかった。まさか趣味から始ったコンピューターなのにそれを教える立場になろうとは・・・しかも、学校ではどちらかというと、アウトサイダーで集団行動が大嫌い。もっと言えば学校自体が嫌いだった。
娘が小学2年で不登校を決断したときの言葉がよく理解できる。
「おとうさん。学校というところは40人の人が居て、同じ時間に同じ場所で同じことしなきゃいけないでしょう。自分がやりたいことがあってもそれが出来ない。それが私には我慢できないのよね。」
それなのに教える立場になったのだ。
実を言えば、私の仕事の多くは、もともと、自分が苦手としてきたことが多い。子供のとき苦手だったのが、音楽であり、美術であり、学校だったのだ。不思議なものである。
しかし、(学校を除いて)それら音楽やアートはやっぱり好きだったのだ。自分には出来ないと思っていた子供時代はきっと、そう、何かに思い込まされていたからだと考えている。何によって?これは言わずもがな、教育と環境だったのだろう。
そういった劣等感からの開放が私の仕事でもある。
実家の写真屋をやりながら空いた時間で、音楽製作、メンテナンス、専門学校の非常勤講師をしているうちに、またもや次の展開がやってきた。
この時期(1994年くらいかな)は、インターネットに興味を持ち熱中していた時期だ。まだ、当時は熊本には接続プロバイダーもなかったが、パソコン通信で知り合った友人の誘いで、熊本医療技術短大にあった端末を触らせてもらった。まだまだ、画像すら表示出来ない時代だったが徐々に環境が揃ってきて、ウェブサイトの制作ソフトなども販売され始めた。
Visual PageとかPageMillという名前を聞いて分かる人は相当コアな通信マニアだろう。
私もその中で、ホームページの製作を趣味で始めていた。
そんなある日、メンテナンスしている病院の関係で福岡の井手さんから電話があった。