フリーランスの作り方

この話はかれこれ30年位前の話から始まる。

実家のカメラ店を継ぐために、なーんにも考えず写真学科のある大学に進んだ私は、在学中から色んなバイトを始めた。ぬいぐるみショー、運送会社、販売員、喫茶店、食堂などである。

色んなバイトを経て、自分なりに向き不向きを確認した後で、実家のカメラ店に戻ってきた。ところがである。どうも居心地がよろしくない。実家の仕事というのは結局、親との対峙である。

成人してまでも、親と一日中向かい合って仕事するのは骨が折れる。普段から仲が悪い訳ではないが、仕事の事になれば必ず対立してしまう。これが他人だと、資料を作ってプレゼンして、説得するという方法論で突破口も作れるが、いかんせん、相手は親だ。

言うことを聞くはずがない。

「いやだから!、このままカメラ店という営業形態を継続させるのは難しいって言ってるだろ」

「なに言ってるの!ひとつの町に1店舗位は必ず残れるわよ!」

私の実家の場合、母が商売の実権を握っていた為、口論となる相手はいつも母だ。

元教師である母は、どこか物言いが高圧的である。それはいうなれば、親という権威を守らねばならないという発想から生まれる昔ながらの考えだ。

そんな中、ある事をきっかけとして副業が始まる。そのきっかけは仕事とまったく関係ないところから生まれた。そのきっかけとは・・・。

そのきっかけとは「失恋」だった。

失恋がきっかけに新しい仕事が生まれるというのは、変な話であるが、実際に世の中なんてどう転ぶかわからないのが面白いところ。

高校一年の頃からお付き合いが始まったその彼女とは、大学卒業するまで続いたのではあるが、それがあることを境に別れることになった。その理由なんて、今考えれば、実に下らない事だ。しかし、当時の私にとっては、自分が考えるより一大事であって、体と心が一気に壊れてしまう事になる。

私はその事をイメージ・ダメージと名づけている。

失恋によってグデグデになった私は、寝込んでいた。体が云う事をきかない。起き上がれない。こ、これでは廃人ではないかと思っていたところで友人が一言、助言してくれた。

「あのな、こーゆー時は歌を作るといいんだぜ。」

「なんで?」

「多分な、こんな時は詩が出来るのだ。人間苦しい時に限って才能がない人にも歌が生まれてくるんだよ。」

素晴らしい助言だった。

ここで、何かしていないと死んでしまうと思っていた私は、歌を作り始めたのだ。

それまで、ギターを少しばかり弾けただけだったが、音楽は元々好きだった。高校生のときにはフォークソングを少しだけ作っていた。だから、音楽を作る事自体は初めてではなかった。

しかし、単に作るだけでは面白くない。そこで私は自主制作でカセットを作る事を思いついた。題名は「Brain Weather Project」として、プロジェクト名も同じにした。直訳すると・・・脳・天気・プロジェクト・・・馬鹿だ。

我が実家は全く音楽を聞かない家だったが、ちょうどその時、父が弾けもしないのに、カシオトーンを買った。それにはコードによる簡単な伴奏機能がついており、それを使って演奏させてみた。

ぽんちゃか、ぽんちゃかと、安物の伴奏ではあるが、それに合せて歌ってみるとなんだか曲に成っている。これは面白い。まるで、ミュージシャンになった気分だ。

歌詞は、友人が言った通りに色々浮かんでくる。そこで、続いて「イメージ・ダメージ」という曲を作ってみた。しかし、安物のカシオトーンでは何だかただのギャグにしかならない。ギャグでもいいが、もう少し音的にもインパクトが欲しい。できればパンクっぽい曲にしたかった。

仕方ない。まずは楽器を揃える事から始めた。

友人から機材を借りたり(その別れた彼女からもシンセを借りた)エレキやエフェクター、録音機材などを購入してレコーディングできる環境を整えつつ、楽器を練習して、録音を始める。最初は下手だが、同じ曲を何度も録音し直しつつ、少しずつ曲の完成度を上げていく。やっているうちに最初とは全く違う曲になっていく。

作りはじめて、録音が終わるまでには半年以上かかった。何しろ、ろくに楽器が弾けないのにレコーディングしようなんて無茶だ。しかし、無茶でいいと思っていた。無理が通れば道理が引っ込む。どっちにしても、元々専門的な音楽の知識なんてないんだ。それでも実現させるためには、無茶やるしかない。

それに元々ミュージシャンになりたいと思っているわけではない。あくまでも、趣味だ。趣味に制限などない。

何かを表現する手段としての音楽。それでいい。そのために自分の出来る事をやる。音楽そのものの理想的完成図なんてはなから求めていない。それを意識しだした時点で、前に進めなくなる。自分の能力と理想の間で思考はストップする。だから、考えないことにした。

その当時はMTRの機材も高価で、後にオープンリールの4CHのレコーダーを購入するまでは、カセットテープのオーバーダビングという方法で、録音した物をダビングしながら音を重ねていった。そのため、出来上がるまでにどんな曲になるのかも分からない。

この時期はまだ、DTM(コンピュータでの音楽制作)の機材は大変高価で自由に購入することは難しかった。だから基本的に演奏は人力でやるしかない。楽器を弾ける人に頼めばもっと楽だったろうが、自分がやりたい音に対して理解がある友人など誰もいない。田舎にそんな奴は居ない。

それでもせっせと楽器を練習しながら録音を続け、8曲入りの自主制作テープの完成まで、1年半位かかった。

さて、作ったら次は販売だ。幾つかアイデアもあったのでそれを実行に移すことにした。まず、その当時はインディーズという言葉も無かった時代で、メジャーな販路を持たない音楽は自主制作と呼ばれていた。

そこで、まずは取り扱ってくれる販売店を調べ連絡を取り、店頭で売ってもらうことにした。熊本ではウッドストック、マツレコなど。東京ではFujiyama等、これらに直接持ち込み、店頭においてもらう。そのためだけに東京にも行った。

それと同時に、自主制作のコーナーがある各音楽雑誌に、説明とテープを送り紹介してもらった。記憶にあるのは、ロッキン・オン、フールズメイト、ペリカン倶楽部など結構な割合で紹介していただいた。その他の情報誌などにも方っぱなしから送りつけ、いくつかの雑誌でも取り上げられた。

そうやって遊んでいたある日、レコード店、ウッドストックのケンさんからこういわれた。

「浅川君、きみ面白いね。いまさ、TKUで『とんでもナイト』っていう深夜番組のスポンサーやってるんで、それで宣伝してやるよ。一度番組に出てよ。」

「あ、いいすね。出ますよ。」

即答した。

即答したものの、ただ、情報コーナーに出て告知するだけじゃぁ面白くない・・・何かインパクトのある宣伝方法はないものか?

”んーーーーそうだ。自分でキューシート書いていこう!”

キューシートとは番組内の進行表である。私は小学校から一貫して大学まで放送部に所属していた。その為、進行用の台本書くことも慣れていた。

”中身はどうであれ、キューシート書いてくる出演者なんていねーだろーなー。これはうけるぞ、ひひひひ”

完全にフザケている。

そして当日。グレーのリクルートスーツを着込んでフォークギターをぶら下げ、右手に進行台本、左手にカセットテープを握り締め、担当ディレクターに会うことにしたのだ。

この頃になると、自主制作テープ制作のために、4ChのMTR(TEAC TASCAM 22-4)とマスター用の16mmのデッキ(AKAI GX77)などを持っていた。それで、放送用に16mmにカラオケを用意していったが、この時点で、素人とは言いづらい状況ではあっても、やはり基本は写真屋のバカ息子である。まだ副業は始まっていない。

初めて会ったディレクターは女性の人だった。テレビ局のロビーで、ソファーに腰掛け、話を始めた。

「あ、どうも。初めまして浅川と申します。」

「どうも、ディレクターの五反田です。」

「あの、今回、自主制作テープの宣伝をしていただけるという事で来たんですけど。実は、そのコーナーの進行表を書いてきました。」

「え、進行表ですか?」

「はあ、キューシートと台本です。これなんですけど、ちょっと見ていただけますか?」

「はい・・・・。」

相当に面食らっている。

当然だろう。単なる情報コーナーの出演者との打ち合わせのつもりで来たにも関わらず、相手が番組進行表と企画書を持ってきている。

あり得ない・・・。進行表と企画書を一瞥した彼女は続けて言った。

「あの、ちょっと待ってもらえます?制作責任者呼んできますので・・・。」

彼女は、いそいそと書類をまとめロビーの奥に消えていった。ほどなくして、細めの男性を連れて戻ってきた。たたずまいはカジュアルだが、眼光がす るどい。

どうやら、その番組のプロデューサーらしい。かれは、軽く挨拶するとディレクターから渡されたキューシートに目を落とし読み始めた。

しばらく、間が空き、彼が口を開いた。

「ふっ、面白いじゃない。やってみれば?」

「あ、ありがとうございます。」

それが制作会社のトップの竹崎さんとの出会いとなった。

結局その日、番組の一つのコーナを一つ潰して、持ち込んだ進行表に沿った内容を収録することになった。

この時代、まだテレビというものが持つ倫理観とかそういった規制などもゆるく、ある意味余裕のあった時代である。また、作っている側もちょっと異端な人物が多かったのかも知れない。だからこそこういったケースも受け入れてくれたのだろう。

スタジオに入り、MCの方に挨拶して、簡単な打ち合わせをして収録が始った。

「今日は、自主制作で音楽を作っている浅川さんをお招きしました。」

グレーのスーツを身にまとい、メガネをかけた7・3別けのサラリーマン風のいでたちの私がフォークギターを抱えて登場した。

「浅川さんは、Brain Weather Projectというバンドをやっているそうですが、メンバーは何名構成ですか?」

「はい。メンバーはドラムと、ギターとベースと、シンセとパーカッション、合わせて1名です。」

「1名?」

「はい。バンドは1名です。私だけです。私の音楽性を理解できるメンバーが居なかったので現在は私一人です。」

当時多重録音で一人で演奏からボーカルまで全部やっているのは少なかった。

「一人でどうやってバンドやるんですか?」

「あー、やろうと思えば出来ます・・・。」

というような会話が続き、16mm(オープンテープ)で、持ち込んだカラオケをバックに演奏が始った。ギターは持っているだけで、弾いてもいない。

「それでは、失恋のどん底で生まれた『Under the Complex』という曲を歌っていただきましょう」

最初は、フォークソングみたいな歌い出しだが、徐々に壊れていく。最後には、暴れ始め、司会者が止めに入ってつまみ出されるという構成。

「放送中、お見苦しい場面を御送りしました。さて、次のコーナーは・・・・」

MCの方にはなるべく、冷静に対処するように台本を書いておいた。おかしいものをおかしく演出してもおかしくはない。それより、正常と異常の間にある境界線というのが面白い。日常に潜む狂気は、狂気の中の狂気より笑えるし、ちょっと怖い。

要はインパクトであって、音楽を聞かせる気はない。深夜のローカル番組であるから、短い時間で印象を残せば、聞きたい人は探してくれるだろう。というより、こうしたものはイベントであって、イベントそのものを楽しむ事がより重要なのだ。

こんなバカな事を公共の電波でやれる面白さの方が重要であって、それで宣伝が成功するか?なんて考えてもいない。

出番が終わって、一人帰る道すがら”我ながら下らない事やってるなぁ”と自分を笑った。それと同時に”よくやった”とも思った。元々自意識過剰で人前に出るのが極端に苦手、修学旅行のバスの中で歌う順番が回ってきても、頑として歌わなかった。

人前で歌うなんてありえない。そんな子どもであったのに、今やテレビに出て下らない歌を自ら歌う事ができている。失敗して人に笑われるのではなく、自ら笑いを獲りに行くことが出来る。これは自分の中で随分変わったと思える瞬間だった。”これでいい。これで怖いものが一つなくなった”そう思いながら、満足して帰宅した。自分の中では、これが一つの終わりだった。

しかし、この出演がきっかけとなり、後日プロデューサーの竹崎さんから電話がかかってくる。

「浅川君。君放送に興味あるんだろ?テレビ番組の制作ブレインで手伝ってくれない?」

この時点では、放送業界に入るとか全く考えていかった。だから、限定した形で、参加させていただけるのなら喜んでお手伝いしますという返事をした。それが、最初の本業以外の副業の始まりだ。

翌日から週一の製作会議に参加して番組の企画をすることとなった。

ローカル番組の製作会議では、様々な企画を考え、その幾つかは採用された、基本的に企画のみで組立はディレクターが引き継いで進行していた。例えばこんな企画である。

「熊本弁公開講座」

イメージは中州産業大学のタモリみたいな教授役が出てきて、熊本弁を解説するのだ。後ろには黒板、前には出演者が机に座り講義が始る。

「今日は『あたじゃー』の使い方を勉強します。それでは、私の後について復唱してください。『あたじゃー文句ばいうな』はい!」

「あたじゃー文句ばいうな!!」

という具合だ。

それら企画だけではなく、出演もしていた。

『データ』君と言う役で、色んなランキングのパソコンオペレータである。基本的に言葉はしゃべらない。黒ぶちメガネに七三分け。まあ、下らないといえば下らないアイディアだが、自分では結構気に入っていた。

そうこうして半年ほど遊んでいるある日、企画会議が終わった雑談中、竹崎さんが私に言った。

「あ、そーだ。君音楽作れるんだったよね。今度番宣用の曲必要なんだけど。やってみる?」

「はい、やります。」

この頃には、Brain Weather Project の方も2本目自主制作テープの制作に入っていたが、1本目を作った時点で、ある意味自分の中ではリハビリとしての音楽は終わっていた。何かを無くした穴埋めとしての音楽。それは止むに止まれず作ったものであったが、その先は見えていない。

その状態で、「音楽を仕事にする」という新たな局面が訪れたのだ。これ以降、年間にすると相当数のCMソングを作る羽目になっていく。

先にも書いたが、その頃の私自身は、音楽の基礎的知識さえ持ち合わせていないし、楽器も殆ど弾けない。しかし、「やる」と言ってしまったのだ。しかも、CMソングというのは、簡単ではない。

自分のやりたい音楽なら誰にだって出来るが、クライアントやディレクターの望むスタイルの曲を作らなくてはいけない。

例えば熊本日日新聞社の「みなよむにっこり」というCMソングを作ったとき、ディレクターの吉崎さんから言われた。

「今回は、ハワイアンかカントリーで行きたいんだよね。」

「あ、分かりました。ハワイアンかカントリーミュージックですね。」

全然わからない・・・・ハワイアンなんか真面目に聞いたこともない。分からないのだが無理やり作る。七転八倒しながらつくる。

「があああ、出来るわけねええだろー。ハワイアンなんて無理だー。どうせ、俺には才能無いんだ!!だめだ、おれはだめ人間だー」

などと叫びながら作る。

まずは分析だ。ハワイアンの音源を探してきて、ベースラインのパターンとバッキングのパターンを分析する。

「あー、ベースはこう言う風に動いてるんだ・・コード進行はこのパターンか・・じゃあ、歌詞はこれだから、このサブメロをこっち持ってきて、メインメロディーをこの曲からパクって・・・」

そーすると案外出来たりする。無理して作るので、そのズレみたいなものが逆にインパクトに繋がることがある。ディレクターもそれを狙っていたらしい。

勿論、この頃はまだ写真屋だから、昼間は作曲の仕事は出来ない。そうなると寝る時間を削るしかなくなる。寝不足の毎日が続くのであるが、それでも楽しい。自分にできないと思っていたことがひとつづつ、出来るようになっていく。

そんなこんなで、番組製作、音楽製作と副業は増えていくのだった。

番組制作が終わる頃には音楽の方が忙しくなってきた。自分のプロジェクトとしてのBrain Weatherの方も今は無きライブハウス、ブルージャムで初ライブを行うことにした。基本的には、カラオケにギターだけでやる。

そうなると、どうもビジュアル的に面白くない。その頃東京のインクスティックで見たホルガー・ヒラーのライブに触発され、映像を使うことを思いついた。

当時、アマチュア・ミュージシャンで映像を使ったライブをやっている奴は周りに居なかった。

当時の非力なコンピューターでワイヤーフレームの簡単なCGを作り、実写と組み合わせてこれまた簡単なビデオを編集して、演奏のバックにプロジェクターで流した。

その映像と音をリンクさせるために演奏のオケはVHSビデオの音声出力をイコライジングしてそのまま使う。このライブにはテレビ業界関連の友人が多数見に来てくれた。

しばらくして、有機生命体というバンドを結成するに至った。この時期は、全国ツアーして遊んだり、色んな事をする。しかし、あまりに色んな事やりすぎてあまり覚えていない。それにこの件を話しだすとまた長くなるので、今回は割愛。

そうこうしているうちに、実家の写真屋で写真の加工をするためにMACを買うことにした。このMAC(Power Mac 8100 Qardra)からまたもや思わぬ事態へと展開して行く。

それまでNECのPC8801を仕事で使っていた。大学生の時に初めて購入したNECのPC-6001から経理の仕事をLotus123でやろうと思って乗り換えた。

当時のPCはDOSで動いていて、私自身もLoutusやアシストカルクを使うだけで、コンピューターそのものには詳しくなかった。Basic言語は大学時代にゲームを作くり、コンテストに入賞した経験もあったが、まだまだ、のめり込むほどではなかった。

音楽製作にはMSXを使っていた。YAMAHAから発売されたMSXというコンピューターにはMIDIインターフェースとFM音源が内蔵されていて、それら使ってCMソングを作っていたのだ。

その中で手に入れたMac・・・もう、衝撃的だった。

とにかくGUIの仕組みが面白い。OS自体でこれほど遊べるコンピューターは知らなかった。その前に、音楽用にATARIのコンピューターを購入 していたが、そいつのCPUが同じPowerPCで、Macのようなインターフェースだったため、程なく慣れた。

勿論この時期から音楽制作もMacに乗り換えた。最初はCubase後にLogicがメインシーケンサー。

寝る間を惜しんでMacと戯れているうち、どんどん、理解が進む。とにかく全ての機能拡張の仕様を暗記して、大抵の事ならトラブルシュートも可能となってきた。

そうして、印刷会社や病院からMacのメンテナンスを頼まれることになった。その当時、Mac利用者自体が少ない状況で、それをメンテナンスできる人物など田舎には殆ど居なかった。そこで、Macのメンテナンスを写真屋の一部門として立ち上げた。

メンテナンス業務を始めるきっかけは、ある日、写真のお客としてやってきた歯科医の先生である。

現在でもメンテナンスの仕事が続いている吉永歯科の吉永先生がいらっしゃった時の会話。受付の奥にMacがあるのを見た先生が言った。

「君、Mac使ってるんだね。Macとか詳しいの?」

「そうですね。大抵のことなら何とかなりますよ」

「お、今病院のシステムでマック使ってるけどさ、おれ、全然わかんないんだよな。」

医療機関ではその時代、Macを使っている場合が多かった。

「そうですか・・・もし困ったことがあれば連絡ください。」

「そうか、イヤ実はうちの病院にも詳しい奴が居なくて、困ってるんだよね。今度見に来てよ。」

早速数日後、出かけることにした。まず、現場に出向き状況を確認するわけだが、この「出向く」という行為が重要だ。電話で症状などを聞いてもあまり意味が無い。まず、現場に行き、実際の担当者と話すということで、コミュニケーションを作っていく。その上で問題を解決する。

最初は基本的に料金は頂かない。「困っていれば助ける」というのが基本だ。そこから始めて、自然と料金が生まれる。

これは、それが本業ではないために可能なやり方だ。

ある程度信頼関係が出来れば、正規の料金も請求可能になっていく。熊本という土地柄で、形の無いものにお金を払う事に抵抗があるのは重々承知しているから、このやり方を執った。焦りは禁物。

一度信頼を得ると、そこから口コミで仕事が広がっていく。

「今度、○○先生のところにも行ってくれよ。あそこも詳しい奴が居なくて困ってるらしいんだ。」

メンテナンスの場合、あまり数を増やすと対応が不可能になる。ここは、きっかけだけ作って、後は状況にあわせて仕事を組み立てることにする。あくまでも基本は写真屋なのだ。

そうやって幾つかのクライアントがつき、メンテナンス業も軌道に乗り始めたときまた、あるアイディアが浮かんだ。

そのアイディアとはデーター修復だ。印刷会社のメンテナンスでよく頼まれることがある。

「このMO読めなくなったんだけど何とかならないかな?」

何とかしてみましょう。てな具合で色々試していたら、通常のソフトでは不可能だった消えたデーターの復旧が出来るようになった。

そこで、ためしにウェブ上にホームページを作ってみた。

「あなたのパソコンの消失したデータを復旧します」

たった、数ページのウェブに過ぎなかったが徐々に全国からデータ修復の仕事が来るようになった。正直これは儲かった。基本的にサービスだから元手が殆ど不要。例えば1台のHDを修復すると数十万の料金になった。

実は当時のデータ修復というのは下手すると、数百万というのが相場でありそれを論理障害に限定することで10分の1位の値段にしたのだ。物理障害の様な場合は、専門の装置と技術がなければ無理。だから、自分の技術で出来る範囲の修理を、成功報酬という形でやっていた。つまり、成功しない場合は無料。

このやり方は当時どこもやっていない。それどころか見積にさえお金がかかるのが当たり前だった。

これを本格的に事業化すれば大儲けできることは目に見えていた。しかし、ある時期から、リカバリー業務からは足を洗った。

今でも頼まれればやるのだが、基本的に知り合い以外のリカバリーはやらない。それはなぜかというと?

ある日、東京のある会社から、壊れたHDが届いた。その前にそのクライアントから電話が入っていた。

「もしもしマックディスクレスキューの浅川です。」

「○○株式会社の○○ともうします。今回はデータ修復のお願いでお電話しました。今回のディスク、料金は幾らかかっても構いません。是非宜しくお願い致します。」

「了解いたしました。全力を尽くします。ですが、既定の料金以上の請求をしたり再見積もりをさせていただくことはございません。」

クライアントはとにかくいくら掛かってもいいから修復してくれとのことだが、料金表以上の金額は取るつもりが無い。

結構重度の障害だったために時間がかかった。状況を逐一報告しながら作業は進んだ。結局1週間掛かったが何とか成功した。成功の電話をかけると、電話口の奥から歓声が上がった。

「やったああああああ!」

「良かったですね!」

「本当に助かりました!!」

いい仕事だ。この声を聞けただけで満足だ。

しかし、喜び方が尋常ではない。なぜなんだろうと心の片隅で考えた。後日請求書を出して入金を確認すると請求額より多い金額が振り込まれている・・・・・。

修復後データーの状況を確認するためにランダムにデーターを開いて確認していて驚いた。その中に、ある家電メーカーの非常に有名な商品の発売前のキャドデーターが含まれていたのだ。(名前を言えばだれでも知っている商品だ)

もし、このデーターが社外に流失すれば大変なことになる。そんな重要なデータだったのだ。その会社が、東京にある大手の修復業者に修復を依頼しなかったのもなんとなく理解できた。できるだけ秘密裏に事を進めたかったのだろう。

怖くなった。ヤバイ。この仕事、私のように遊びの延長でやるべき仕事ではない。そう思った。

仕事としては、いい仕事だ。しかし、もし、この仕事を続けるのであれば、今の写真屋と平行してやるべきではない。これは真剣に事業化しなくてはいけない。それにデータ修復と言うのは孤独な作業だ。何日も呪文のようなダンプリストと呼ばれる16進数の数字をチェックしないといけない。

これは辛いし、第一楽しくない。

そこで、当時、仕事を探していた友人にその仕事を振った。

まず、一般的な復旧ソフトをあげて、まずはソフトを熟知することからはじめてもらい。差別化のためWindows専門でスタートアップした。まずは市販ソフトで出来るレベルから修復代行業務というようなコンセプトだ。そのために料金形式も私のビジネスモデルをそのまま利用していただいた。

修復ソフトがあるから誰もが修復出来るということではない。修復という仕事は、その作業が面倒で頼む場合もあるので、困っていればそれを助けるという意識で、最低限の料金をもらうのは悪いことではない。

その仕事を振った相手は、友人の浦口くんだ。私がマックディスクレスキューという名前でやっていたので、彼の場合はウィンディスクレスキューという名前で始めた。

元々家電製品の修理の下請けをやっていたこともあり、独学でメキメキと仕事の腕を上げ、どんどん事業拡大していった。才能があったのだ。逆にその頃私は、修復の仕事からは足を洗いつつあった。

今のその会社の名前が「くまなんピーシーネット」熊本のベンチャービジネス界でも有名な会社だ。と、言うより全国の修復業者として5本の指に入るだろう。

さて、リカバリー業務をはじめる少し前にもう一つの仕事が始まっている。それが学校の講師の仕事だ。

この時期、私はマックによるパソコン通信にもはまっていた。Niftyから始って熊本ローカルであるアリエスそしてJNETと楽しんでおり、JNETではサブオペを努めさせて頂いていた。

当時はまだ、インターネットが普及する前で、今のインターネットの様な多彩な機能はなかった。

簡単に言えば2chの掲示板みたいなものがあって、そこに各自がハンドル名で記事を書き込んでいく。基本はそういったものであったが、それでも、カテゴリに分かれた掲示板を基本として、コミュニティーが生まれ、新たな人とのつながりが出来ていた。

音楽や、様々な掲示板を通じて、沢山の人と知り合うことが出来る様に成っていた。

そうして知り合った友達の間で、オフ会と称して実際会って友達になる・・これはまぁ、昔で言えば書籍の文通コーナーで知り合うことに似ているわけだが、今のインターネットを使っている人からすれば何の感動もない事かも知れない。

しかし、当時は、そういったコミュニケーションツールはなかったわけで、それによって世界観自体が変わる体験をした。

そんな中、パソコン通信で知り合った当時は湖東カレッジの川本先生からこんな相談が来た。

「今、うちの専門学校で講師の空きが出来て、代わりの先生を探しているんですが、浅川さん誰か良い人居ませんかね?」

「そうですね。ジャンルは何ですか?」

「マルチメディアなんですよね。」

「分かりました。探してみましょう。」

しかし、マルチメディアというジャンルに精通する人材はなかなか見つからない。そのうち川本さんがこう言った。

「そうだ、浅川さんやりませんか?浅川さんなら映像系は専門だし音も作れるからぴったりですよ」

この提案には正直悩んだ。それまでの仕事とはちょっと性格が違う。

何しろ、大学も芸術学部に進んでいたので、コンピューターの専門教育は受けたことが無い。コンピューターの学校でコンピューターの事を教えるなんて、ちょっと敷居が高すぎると思ったのだ。大抵のことでは悩まない私であったが、さすがに責任の重さが違う。

「どうしても見つからない場合は、考えますね。」

と、答えた。そうこうしているうち人材が見つからず、結局やる事になった。

そこで、初年度は私一人ではなく、友人のクリエータ達と交代でやることにした。それぞれ現場の第一線で活躍している人たちだ。

彼らとやることで、一定のレベルを確保でき、なんとか状況が分かった。これなら出来るかもしれない。マルティメディアというジャンルは今はもう死語だろう。コンピューターの処理能力が上がってきて、画像、映像、音響が扱えるのは当たり前。しかし、その時代にはまだ、技術が進化している途中であって、今のYoutubeのようなサービスなど夢に過ぎない。

正直この展開は読めなかった。まさか趣味から始ったコンピューターなのにそれを教える立場になろうとは・・・しかも、学校ではどちらかというと、アウトサイダーで集団行動が大嫌い。もっと言えば学校自体が嫌いだった。

娘が小学2年で不登校を決断したときの言葉がよく理解できる。

「おとうさん。学校というところは40人の人が居て、同じ時間に同じ場所で同じことしなきゃいけないでしょう。自分がやりたいことがあってもそれが出来ない。それが私には我慢できないのよね。」

それなのに教える立場になったのだ。

実を言えば、私の仕事の多くは、もともと、自分が苦手としてきたことが多い。子供のとき苦手だったのが、音楽であり、美術であり、学校だったのだ。不思議なものである。

しかし、(学校を除いて)それら音楽やアートはやっぱり好きだったのだ。自分には出来ないと思っていた子供時代はきっと、そう、思い込まされていたからだと考えている。何によって?これは言わずもがな、教育と環境だったのだろう。

そういった劣等感からの開放が私の仕事でもある。

実家の写真屋をやりながら空いた時間で、音楽製作、メンテナンス、専門学校の非常勤講師をしているうちに、またもや次の展開がやってきた。

この時期(1994年くらいかな)は、インターネットに興味を持ち熱中していた時期だ。まだ、当時は熊本には接続プロバイダーもなかったが、パソコン通信で知り合った友人の誘いで、熊本医療技術短大にあった端末を触らせてもらった。まだまだ、画像すら表示出来ない時代だったが徐々に環境が揃ってきて、ウェブサイトの制作ソフトなども販売され始めた。

Visual PageとかPageMillという名前を聞いて分かる人は相当コアな通信マニアだろう。

私もその中で、ホームページの製作を趣味で始めていた。

そんなある日、メンテナンスしている病院の関係で福岡の井手さんから電話があった。

「浅川さん。実は、友人の佐藤がインターネットのサイト制作の営業やってるんですが、これまで私が制作してたんですけど福岡に引っ越すことになったので、代わりにやってくれる人探してるんですが、浅川さんいかがですか?」

「いや、僕はまだ始めたばかりだから簡単なものしか作れないよ。」

「ああ、もう、浅川さんだったら大丈夫ですよ。」

随分と乱暴な話である。それでも製作者が居なくて困っているという事なので、会うだけは会おうと思った。

湖東カレッジ近くのジョイフルで始めて会った佐藤君は、体育会系で、イケイケタイプ。

「いやあ、今まで頼んでいた人が熊本に居なくなっちゃって、ウェブ作れる人が居なくて困ってるんですよ。」

「あ、まあ簡単なものなら作れますよ。」

「そうですか?そりゃ良かった。実はすでに受注してまして、すぐにでも製作に入りたいんですよ。」

「そりゃまた、急な話ですね。でも、どの程度のボリュームなんですか?」

「あ、ボリュームはたいしたこと無いんですけど、15~16ページかな・・でも納期が無くて2週間で仕上げないといけないんですよ。」

「2週間・・構成資料はあるんですか?」

「ええ、一応そろっています。」

「じゃあ、何とかなるかな・・昼間は写真屋と学校があるんで動けませんので、夜しか仕事できませんけどいいですか?」

「あ、も、全然問題ないです。」

その日は、その程度で話は終わった。

翌日資料を持って来るとの事。その資料を見て大変だということが分かった。

相手は九州でも大手のコンビニエンス・ストアー本部のウェブ。(当時の、エブリワン、SPAR、RICを運営する九州コンビニエンスストアー株式会社)

ボリューム的に見ても50ページ以上ある。

それだけではない。オープニングにFlashが必要となる。 その時期はFlshのバージョンも2か3で、私自身使ったことが無かった。2週間で全ての構成をまとめ、使ったことがないソフトを覚えながら、サイトを構築出来るのか?しかも昼間は別の仕事だ!!

その日から地獄が始った。

ウェブ全体の構成を確認して、再構築しながらFlashを買いに行き、ソフトを覚えつつ製作に入る。

昼間は仕事なので、製作は出来ない。一人だと完全にアウトだということが予測できたので、もう一人、素人の友人にヘルプを頼み、HTMLコーデックを無理やりやらせる。この時お願いしたのが、先の、くまなんピーシーネットの創業者浦口君。この時点ではまだ、彼の修復の仕事は始まっていなかったと思う。

それと同時に、デザイナーを用意し、ウェブデザインをやってもらうが、これがまた大変な事となる。その時のデザイナーである古川さんは、DTP(印刷)のデザインやCGが専門であって、WEBの知識は殆どなかった。

これは今でもぶつかる問題ではあるが、WEBを作ったことがないデザイナーにデザインをお願いするととんでもない事態に発展する。DTPとウェブデザインではセオリーが全く違うのだ。

「あれ・・ここ斜めに線が横切ってるよね・・書体指定されても無理なんだけど・・・・」

まだその当時CSSというものは存在しない。

しかし、訂正して頂く時間は無い。出来る限り強引に再現しつつ不可能な部分は改造する。もう、古川さんに連絡さえとらない。基本的なレイアウトができたら中身の記事を浦口君に渡して組みこんでいく。

さて、ここでさらに問題だ。当時の通信回線事情だと、デザインの元データなどをネットで送ることが不可能。容量が大きすぎるのだ。そこでMOでのデータの受け渡しが基本となる。そのため佐藤くんには受け渡しの配達とクライアントとの交渉をやってもらっていたが、彼自身も疲労困憊、高速道路を間違って北上してしまい。数時間ロスしたり、車のバッテリーが上がって動けなくなったりとトラブル続き。

コーデックと同時にオープニング、ナビゲーションFlashを合計4本仕上げるが、ほとんど眠れない。

ナビゲーションの部分でSPARのロゴを使って、矢印の部分が回転してメニューを表示するというのを制作。

これは怒られた・・・確かにそうだ。大事な企業のロゴマークが回転してレイアウトが崩れるなんて、ありえない。しかし、当時はそういった当たり前の判断力すら低下して

「おお、矢印回転させたらカッコイイじゃん!」

とだけ思っていた。

当時はマックだったので、一番処理速度の早いパソコンは店に置いてある。食事と仮眠以外は仕事に充てる。倒れるようにパソコンの前で力尽き座ったまま寝て、起きたらまた仕事に戻るという繰り返し、もう、昼なのか夜なのか食事したのかしていないのか全く分からない。

それでも、何とか約束の期日までに納品させほっと胸を撫で下ろした。

後日、佐藤くんが私に言った。

「いやあ、あの時はすみませんでした。だって本当のこと言ったら受けてくれないと思ったもので・・。」

「そうね。その判断は正しかったよ。本当のこと知ってたら受けてないよ。しかし、2度目は無いからね!」

そのときはそう云ったのだが、それから一年後、佐藤君が起業した製作会社、スリーアイ・プロモーションに入社することになるとは、その時まったく予想できなかった。

そういえば、書き忘れていたが、これら仕事以外に当時の妻の実家も、偶然ホテルの写真館だった為に、土日はニュースカイホテルで結婚写真の撮影などもやっていたし、趣味で集めた音響機材を使って頼まれてイベントのPAもやっていた。

そこにウェブ系の製作業務が仕事に加わり、とても忙しいことになってしまった。しかし、本業の写真は斜陽産業。年々売り上げが厳しくなってくる。

そうなると、やはり副業を正業にするべき条件がそろいはじめた。

さて、ではどのタイミングでどの仕事をメインに置くのか?普通どれか一つに決めるべきだろうし、今までやってきたどの仕事でも食べていく自信はあった。しかし、正直言えばどの仕事にもその魅力があり、やりたくて始めたものばかり。それを全部やめて一つにすると言うのは自分らしくない。

そんなことを考えていた時、またもや転換期がやってくる。

当時、パソコン通信で知り合った熊本日日新聞の村田次長(今は役職ちがうけどね)から、連絡が入った。

「あ、浅川くん久しぶり、今度さぁ、熊日のホームページリニューアルして kumanichi.comという形にするんだけど、プレゼン出してみない?」

「えっ?まじですか?だって、ちゃんとした代理店とか噛んでるでしょ?」

「うん、そうなんだけどね。まかり間違って通るってこともあるかもね。」

「また、また、単なる数合わせでしょ?」

「いや、いや」

まあ、いいだろう。どうせ数合わせだったら遊んでやれ。という感じで、企画書を作った。すでに中身は忘れたが、結構アグレッシブな内容だったと思う。対する周りの代理店は電通さんとか地元大手の代理店、当然完成度の高い内容だ。

しかし、こっちは単なる遊びのウェブ制作者、はなから勝ち目などないので、逆に気にもならない。プレゼンを終えて自宅に戻る車の中で、またもや「あー、面白かった」と一人笑った。

数日後電話があった。

あ、浅川くん。プレゼン通ったよ。

「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっつ!」

「プレゼン通ったから、打合せに来て!」

「ちょ、ちょ、ちょ、待ってくださいよ。僕、写真屋ですよ!」

「知ってるよ。でも、通っちゃったんだよね。」

「通っちゃったんだよねって・・・・。」

熊本県外の人には実感がないと思うが、熊本の三大企業が、この熊日、鶴屋、肥後銀行と言われていて、それぞれ、規模も大きい。通常地方新聞は購読数から言ってもこじんまりとして居るのが普通だが、熊本の場合は特殊で、熊日が7割それ以外を全国紙が占めている。

そういった企業のウェブサイトである。当然基幹システムとの連動も含め、高度なシステムも要求される。さて、どうしたものか?

そこで思いついた。

九州コンビニエンス・ストアーのサイトを作ってから、何かと手伝っていた佐藤くんが正式に起業して、スリーアイプロモーションズという会社を設立していた。彼からはずっと入社を進められていた。しかし、ずっと言葉を濁していた。そこで、佐藤くんに電話した。

「佐藤くん。あのさ、今度WEBの受注があったんだけど、それそっちでやんない。」

「いいですよ。クライアントはどこです?」

「あ、熊日。」

「えっ!熊日獲れたんですか!まじですか!」

「うん。何故かとれちゃったんだよね。」

「是非、やらせて下さい!!」

「あ、それとね。これを機会に私も入社したいと思うんだけど・・。」

「いいっすね~。お願いします。」

さて、これで方向性は決まった。まずは村田さんに連絡を入れ、スリーアイプロモーションズとして仕事することを相談。了解を得た。次は、実家だ。

すでに、両親は私が副業を色々やっているのは知っていたが、実際何をやっているのかはほとんど知らない。まあ、説明しても多分理解できない。そこで、副業の収入の金額の推移をグラフにして、状況を説明した。

「写真業で今後も食べていくのは難しいよね。で、これが今やってる副業の大体の収入なんだけど、すでに正業の給料超えてるじゃない。だから、このままやっていけば食えると思うのよ。で、ほら時々うちにも来てる菊池の会社の佐藤くんから誘われててその会社に入ろうと思う。」

この説明で、すんなりと両親は納得。転職が決まった。

実家に就職してから約10年が経っていた。その間の私を見ていた両親も、カメラ屋の経営には向いていないということが理解できていたのだろう。それより他のことをしている時のほうがイキイキしている。それが分かっていたはずだ。

それにいつもそうだが、大事な決断をするときも基本的には誰にも相談しない。自分で考え自分で決める。周りには事後報告したことしかない。だから何を言っても無駄だと言うことも分かっていたはずだ。

ただ、心配は、私自身が会社という仕組みに向いていないということだった。これは自覚があった。しかし、やってみる価値はあるだろう。

カメラ店勤務の時、後半になって現像機を導入した。それまでの販売だけでなく、毎日プリントという単純作業をこなさなくていはいけない。これ自分には向いていないと思っていた。

毎日、毎日単純作業なんてつらすぎる・・しかし、結果は違った。いかに綺麗ない色に仕上げるか?そのための工夫をする、そうして出来た写真を更に追い込んでデータをつくる。そうして技術を上げていく。そういった作業が楽しかった。

何にしても、やっぱり体験してみないと分からないのだ。スリーアイプロモーションズに入社するときに一つだけ決めた。

「何があっても2年は続けよう」と。

その当時菊池にあったスリーアイに通勤する毎日が始まった。

当時はまだ4人位だったが、それでも新しいことを始めるという気持ちでみんなワクワクしていた。私もそうだった。実家を飛び出し、新たな仕事を始める事で本当の意味での自立も出来そうな気がしていた。

とにかく楽しかった。いろんな仕事をその中で作り上げながら事業を拡大していった。ある日新しいメンバーが増えるということで挨拶に来た。

「どうも、はじめまして吉良と申します。明日から営業の担当させていただきます。」

真面目そうな挨拶だったが、ちょっといたずら心が浮かんだ。

「처음 뵙겠습니다. 나는 아사카와라고합니다. 앞으로도 잘 부탁드립니다.」

嘘の韓国語で返事を返した。韓国語なんて知らない。

「え、あ、あの、韓国の方ですか?」

「わたし、韓国の釜山から来ました。부산은 어항에 물고기가 맛있습니다.・・・」

全く嘘だ。相手は完全に言葉を失っている。さすがに可笑しくなって、大笑いした。

「ごめんごめん。はじめまして、浅川です。日本人です。」

そうやって、仲間は増えていった。

スリーアイの時の仕事の仕方は、ちょっと特殊だったかも知れない。ある日佐藤社長が言った。

「みんな!新しい仕事とれたぞ!アニメーションの仕事だ!」

「オッケー、で?誰が作るの?」

「そりゃ、浅川さん達ですよ!」

「おおおお、メンバー誰もアニメーションの経験ないぞ!」

「大丈夫ですよ。浅川さんたちなら作れますよ。だって、もう受注しちゃったし。」

こんな感じだ・・・・そうして出来たのが、味千ラーメンのアニメだった。イラストレータの村井健太郎さんに原画と基本ストーリーをお願いして、それを元にFlashアニメーションを作成、半分くらいアドリブで声録りして、仕上げていく。

ちなみに声優が足りなくても自分でも味仙人の声をやっている。

とにかくある意味全ての制作が新しい挑戦の繰り返しみたいなものだったので、毎日がイノベーション。仕事はどんどん増えていく。基本的にこれは無理だと思われる仕事を実現化していく。どこにその接合点を見つけ、どういった方法論で実現させるのか?毎日が戦いである。

しかし、スリーアイ時代は、あまりにいろんな事があったため、逆によく覚えていないし、くどくど書くのはやめておこう。そして、徐々に事業が拡大していくのと同時に本当の意味で拘束され自宅にも帰れなくなる事態に発展する。

水前寺に事務所を移転した時も、家に帰れず、良く風呂場で寝ていた。タイル張りの風呂場に、キャンプ用の薄いマットを敷いて寝るのだが、冬場は厳しい。

タイルというのは木に比べても熱伝導率が高い。熱伝導率が高いということは、逆に体温も奪う。うつ伏せや仰向きで寝てはいけない。接地面積が広いから体温を奪われ凍死してしまう。横向きで寝るのが正しい寝方だ。

そうやって、過ごしているうちに徐々に疑問が湧いてきた。

”果たして、この仕事は自分が望んだものだったろうか?”

事業というのは起業時が一番面白い。その後やってくるのは継続のための努力だ。つまり、クリエイションという観点からすれば最初はクリエイティブでも段々会社を回すための作業が増えてくる。そうなってしまうと、クリエイティブの面白さは半減する。

勿論。サスティナビリティーを意識出来ないなら、会社も存在出来ない。それを、ちゃんと役割分担できればいいが、数の問題もあって、そううまくは行かないだろう。

スリーアイに入社して2年目の終わりの冬、ある出来事が起こった。

その日は久しぶりの休日家族と阿蘇に向かっていた。

立野のお弁当のヒライで小休止、子供たちはお弁当を買いに店に入った。私は外で煙草を吸おうと、灰皿のある場所に移動した。その日は快晴で、青空が美しい。そこから眺める外輪山はくっきりとした輪郭で、木々とざわめく光に満ちていた。

その時、何の前触れもなく涙が頬を濡らした。何の感情も湧いてこない。しかし、なぜだか涙が流れるのだ。なぜ、泣いているのか自分でも理解できない。その時分かった。

”ああ、私は病んでいる”

きっとその時、仕事のために全ての感情を封じ込め、まるでロボットのように働いていたのだ。そのことを体が教えてくれた。

”今の仕事、辞めよう!”

心が決まった。それからしばらくして、佐藤社長に相談して、独立することにした。

やっとである。12年かかって一人で仕事する決意をした。スリーアイの仕事始める時決めた2年間という期間がちょうど来ていた。それにやっぱり会社勤めには向いていない。スリーアイではそういった私に対して、社長室がないのにもかかわらず個室を用意してくれたり、随分便宜を測ってくれていたが、それでもやはり向いてなかった。

退社を決めすぐに、仕事の再構築に入った。当時まだ社会保険もなかったので、失業すなわち即収入0になる。勿論失業保険もない。

家族5人を食べさせるのは難しい。それでもそうするべきだと思った。何が何でもそうするべきだと、心の中がそう告げていた。そうなれば怖いものはない。

いつも周りに言っている。

状況判断は損得で考えれば必ず失敗する。情報を集め熟慮した後、最終的には心に聞け!

それを実行する時だ。兎にも角にも仕事をやめた。

仕事をやめて、最初にやったのは、平日、温泉に行くことだ。仕事していた時にはそんなこと出来はしない。最初の温泉は、スリーアイの佐藤社長と一緒に初めて営業に行った時の帰りに、私が提案して寄った、坂本村のクレオンだ。

最初の仕事なのに、帰りに温泉に行った。そこで、佐藤社長と色々話した。これからの夢、現実、その他いろいろ。

今度は、そこに一人で行く。

平日の温泉は人も少なく、のんびりしている。途中、道端に花が咲いている。普段だったら気にも留めないその野草の花が美しい。温泉の湯船に太陽が反射してきらめいている。

それらが全て見えなくなっていた物だった。それが意識の中にちゃんと入り込んでくる。

”美しい。世界は美しかったんだ”

これでやっとまともになった。

仕事をやめ、フリーランスとしての仕事が始まった。ここで、いきなり起業する場合との違いは、すでにその素地が出来上がっていたことだ。それまで培った技術やスキルがあった。要は、メインの仕事しながら副業という形で、実績を積んでいたから出来たのだ。

しばらくして、同じくスリーアイを退社した現、株式会社サンナナの佐藤圭君と友人の現アニメーターでCGアーティストの大野君とシェアリング企業デルタワークスを始める。しかし、未だに法人にはしていない。

デルタワークスは、あくまでも箱でしかない。

仕事のやり方は、私が起点となり全てプロジェクト単位で構築される。従って、固定されたメンバーは居ない。

このIT業界で、フリーで仕事をしたいなら、ある程度の柔軟性が必要だ。それぞれが自立分散して機能する。そのやり方は、星合先生の提唱されているSCBに似ている。

中心人物の求心力が無くまたは利益を確保できなければ、空中分解をおこす。

「会社」というシステムは良く出来ている。役割分担を決め、その中でそれぞれの得意分野を活かし、組織として運営する。そのために効率的な仕事ができ、それぞれの特性も生きてくる。逆に言えば、仕事すべてに精通する必要はない。

それに対して、フリーランスは、基本的に全て自己責任。全てのことに対して力がなければ、成立しない。だから、万人に向いたやり方ではないのだ。それでも、その在り方は各々の資質において可能だろう。

山に登る道は一つではない。

登る山が低かったとしても、心に余裕があれば、回り道をして、人が知らない湖や谷を見つけることができるかも知れない。

要は、登ることが目的ではない。そのプロセス、つまり道だ。もし、そのことに気づかなければ、生産性とか利益率とかそういった数字だけに意識が行ってしまい、大事な「生きること」の意味を見失ってしまう。

私の場合、それを始めたのは、失恋から立ち直るきっかけをくれた。今は亡き親友、矢野くんの言葉だ。

「こんな時は歌を作るといいんだぜ」

そこから全ては始まった。

失恋した恋人の浮気相手が彼だった事を、後日知ったとしてもだ。(これには笑ってしまったが)

「矢野、ありがとう。」


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