九州コンビニエンス・ストアーのサイトを作ってから、何かと手伝っていた佐藤くんが正式に起業して、スリーアイプロモーションズという会社を設立していた。彼からはずっと入社を進められていた。しかし、ずっと言葉を濁していた。そこで、佐藤くんに電話した。
「佐藤くん。あのさ、今度WEBの受注があったんだけど、それそっちでやんない」
「いいですよ。クライアントはどこです?」
「あ、熊日」
「えっ!熊日獲れたんですか!まじですか!」
「うん。何故かとれちゃったんだよね」
「是非、やらせて下さい!!」
「あ、それとね。これを機会に私も入社したいと思うんだけど・・」
「いいっすね~。お願いします」
さて、これで方向性は決まった。まずは村田さんに連絡を入れ、スリーアイプロモーションズとして仕事することを相談。了解を得た。次は、実家だ。
すでに、両親は私が副業を色々やっているのは知っていたが、実際何をやっているのかはほとんど知らない。まあ、説明しても多分理解できない。そこで、副業の収入の金額の推移をグラフにして、状況を説明した。
「写真業で今後も食べていくのは難しいよね。で、これが今やってる副業の大体の収入なんだけど、すでに正業の給料超えてるじゃない。だから、このままやっていけば食えると思うのよ。で、ほら時々うちにも来てる菊池の会社の佐藤くんから誘われててその会社に入ろうと思う。」
この説明で、すんなりと両親は納得。転職が決まった。
実家に就職してから約10年が経っていた。その間の私を見ていた両親も、カメラ屋の経営には向いていないということが理解できていたのだろう。それより他のことをしている時のほうがイキイキしている。それが分かっていたはずだ。
それにいつもそうだが、大事な決断をするときも基本的には誰にも相談しない。自分で考え自分で決める。周りには事後報告したことしかない。だから何を言っても無駄だと言うことも分かっていたはずだ。
ただ、心配は、私自身が会社という仕組みに向いていないということだった。これは自覚があった。しかし、やってみる価値はあるだろう。
カメラ店勤務の時、後半になって現像機を導入した。それまでの販売だけでなく、毎日プリントという単純作業をこなさなくていはいけない。これ自分には向いていないと思っていた。
毎日、毎日単純作業なんてつらすぎる・・しかし、結果は違った。いかに綺麗ない色に仕上げるか?そのための工夫をする、そうして出来た写真を更に追い込んでデータをつくる。そうして技術を上げていく。そういった作業が楽しかった。
何にしても、やっぱり体験してみないと分からないのだ。スリーアイプロモーションズに入社するときに一つだけ決めた。
「何があっても2年は続けよう」と。
その当時菊池にあったスリーアイに通勤する毎日が始まった。