大学生の時バイクで事故った。

私は大学生の時、原付バイクに乗っていて事故ったことがある。

福岡の香椎から、その時付き合っていた彼女の家に向かって国道3号線を飛ばしていた。4車線のその道は、通勤時と重なり車道は車でいっぱい。その車の脇をすり抜けるように走っていた。

天気は薄曇り、時々雲の隙間から光がこぼれる。ウォークマンから流れる音楽は尾崎亜美だった。消防署の前を通り過ぎた瞬間、突然衝撃が走った。

ズガ!ドン、ガシャーン

私は、並んだ車の間をすり抜け、右折しようとした対向車によって、その直進しようとする慣性力を一瞬にして奪われたのだ。その衝撃で車の側面にノンブレーキで激突、吹っ飛んだメガネなしの裸眼で見えたのは、曇った空を飛んで行くカラスの群れ。その直後右足に激痛が走った。

 「おどりゃ、ぐおおおおおおおお!!!!」

なんだか足が痛い。激突して倒れたバイクの下敷きになった私の右足は、見事にスネのところで複雑骨折。運転手が車か降りてきて、狼狽している。見た目では自分とそれほど違わない年頃の男性。

 「だ、大丈夫ですか?」
 「だだだだ、大丈夫なわけないです。救急車呼んでください」
 「分りました」

近くの人たちも集まってきた。勿論私は動けない。しばらくすると何の前触れもなく、

ピーポーピーポーピーポー!

そうである。私が事故ったのは消防署のすぐ隣、駆け寄ってきた救急隊員は私を見て

 「大丈夫ですか」
 「大丈夫です」

私がそう答えると同僚の隊員に向かって小声で「あ、こりゃたいした事ないな」と、ほざきやがった・・・・。

”てめーらにはたいした事なくてもこっちはたいしたことあるんだぞおおおおお ”

とまあ、心の中では思いつつも、担架に乗せられ初めて救急車に乗り込むのであった。


私は、初めて担架というものに乗せられ、これまた初めて救急車の中に運び込まれた。骨折した右足を少しでも動かすと激痛が走る。苦痛に顔を歪めながら、その激痛を和らげるため私がとった行動とは・・・「とにかくしゃべる」であった。

救急隊員相手に

 「いやすみません。これ折れてますか?」
 「あー折れてるね」
 「やっぱりそうですよね。折れてますよね。いやあ、初めて骨折したんですけど痛いですね」
 「そりゃ痛いよ。骨折だもの」
 「そうですよね、骨折ですよね。骨折って痛いに決まっていますよね」

べらべらしゃべる私は止まらない。救急病院に担ぎ込まれる際も、出てきた看護婦さんに向かって、

 「あ、どうも、骨折しちゃいました。お世話になりマース。いや、もう骨折しちゃって、まいっちゃったな。このままだと大学通えないですよね。ほんと痛いですね。骨折って痛いですね」

レントゲンやら応急処置やら何かと受ける最中もずっとしゃべりっぱなし。

 「ここ、香椎のどの辺ですか。うがっ。あー香椎宮のそばですね。うりゃああ。ここって、救急病院だから看護婦さんも大変ですよね。24時間体制なんでしょう?どぎゃああ。僕ってあんまり病院とか来ないんですけど、やっぱり、あれですね。病院のお世話にはならずに済めばそのほうがいいですよね。あじょおおお。・・・・」(赤字は叫び声)


そうして、やっと一日目の入所儀式が終了。晴れて入院患者の一員になった。救急病棟の大部屋に運び込まれたその日の夜の看護婦との会話。

 「はーいこれ、痛み止めです。どうしても我慢できなかったら飲んでくださいね」
 「わかりました」

確かに痛い。じっとしても痛みが右足から駆け上ってくる。勿論眠ることなんて出来ない。看護婦さんが「どーしても我慢できない時飲め」といった薬は手元にあるが、我慢できなくもない。こーゆー時に我慢するコツというのは

「痛いのが当たり前、痛くて当然。痛い状態が普通」というように自己暗示をかけるのだ。そーすると、多少苦しさ遠ざかる。そうやって、うつらうつらしながらも朝を迎えた。

朝の看護婦さん

 「あら?薬飲んでないの?」
 「いや、どーしても我慢できない時飲めって言われたから、何とか我慢しようと思って・・・」
 「へー。初めてだわ。骨折して痛み止め飲まなかった人」

「へーっ」って ・・・・「へーっ」て云うなぁ!

だったら、はじめから「痛み止めです。飲んでくださいね」って云え!

こうして壮絶な入院生活が始まった。


事故の翌日、(だったか2~3日過ぎてだったか忘れた)加害者である男性(大学生)が母親を連れて、挨拶に来た。

たまたま私の両親も居たので、5人での話し合いが始まったが、相手の母親がこう切り出した。

 「うちの息子は、アルバイトしながら自分で学費をかせいで大学に行ってる苦学生なんです。今回の事故は友人から借りた車で起こしてしまった為、車の修理代を払わないといけないのですが、その分は補償してくれますか?」

唖然とした・・・・・・・。

まだ、私の怪我の状況も分からない時点で、いきなり車の弁償をを求めてくるなんて・・・。

唖然として、怒る気にもならなかったが、それを聞いた両親がブチきれて、口論が始まった。私の母が

 「ちょっと待ってください。お金の話は後ではないんですか?普通ならまず怪我している息子に詫びを入れるのが筋でしょう」
 「しかし、私の息子もこれで大学にいけなくなるかも知れないんですよ!」
 「ですから、そーゆー問題ではありません」

しばらく口論を聞いていた私は、ベットから身を起こして

 「まあまあ、双方も言い分があると思いますが、ここは病室です。他の患者さんの迷惑になります。怪我しているのは私で、まだ手術受けてませんし、これから怪我のほうもどうなるか分らない状態です。ちょっと落ち着いてから話ましょう」

と、言いながら、”あれ?なんで僕が両方をなだめているのかな・・・”と、疑問に思ったのだった。

流石に怪我人から諭された相手は、「それでは、また来ます」と云って帰っていった。

帰った後、確かに相手の言うことはおかしいなあ?などと考え、彼らのセリフを思い出していたら、その理不尽さに笑いがこみ上げてきた。


私は、この大学3年生の終わりに起こした事故で、出席が足りず、後に2単位を残して大学を退学する事になるが、別に加害者を恨むような気持ちにはならなかった。だって、これは事故。悪意があって起こしたことじゃない。

逆に松葉杖をついて学校に通うのが面白かった。

まあ、どういう相手なのかは分ったので、これは当人同士の話では収拾が付かないだろうということで両親と相談してこれ以降の話は、保険屋さんにお願いする事になった。

後で分ったが、相手は任意保険にも加入していなかったようだ。補償額は9対1という条件で話が決まった。

「また来ます」と言った割には、退院するまでの3ヶ月間、保護者の母親が来ることはなく、1ヶ月位して、一度だけ当事者がやってきた。病室のドアを開け、私のベットの横に立った彼は、切り出した。

 「すみませんでした。私も大学をやめることにしました」

ああああ、まだ分かっていない。「すみませんでした」は良しとしよう。(事故の後1ヶ月経っていたとしてもね)しかし、「私も大学やめることにしました」とは余計だろう。

 「そんなこと知ったこっちゃねえけど、君は自分が大学辞めたのは僕のせいだと言いたいのかな?いや、無意識にそう思っているんだね。ああ、わかった。無自覚なんだ。自分が起こした事でどんなことが起きてるか?それ分かってないね」

と、言いたくなる所をぐっと我慢して

「そうですかーーー」

と、答えてしまった自分に逆にちょっと落ち込んだりして。


さて、骨折したのは右足のスネの部分だったが、それ以外も含めて何箇所かの複雑骨折。手術を受ける事になった。この手術というのがイカしてる。通常はボルトとプレートを入れて固定するわけだが、そこでは最新の手術を行うという話になった。

それは、足の3箇所、つまりひざの下と、足首の上、骨折したちょっと上、この三箇所に鋼線(金属の棒)を通す。その鋼線をギブスと共に固定して骨が繋がるのを待つというやり方だ。骨の串刺しだね。

この治療方法を説明してくれたのは若い外科医。「最新の治療法」という台詞にはなんとなく惹かれる響きもあり、面白そうなので快く了承した。

しかし、その外科医、何だかとても若い。若さというものにはハツラツとした良さもあるが、治療という基本スタンスに立ち返ってみると一抹の不安もある。

しかしながら”まあ、大丈夫だろう”と、たかをくくっていたのが、これ以降私を10年近く苦しめる、ある結果へと導く事になる。

手術を受けたあとで聞いた話であるが、この病院は救急病院であるにも関わらず、専門の外科医というのがいない。そのため、私を担当したのは九州大学の医学部の研修医だったようだ。

”なああに、骨折の手術くらいなんて事ないだろう。内臓と違って、腹割られるわけじゃないしな”


手術の当日、軽い全身麻酔とともに局部麻酔がかけられ手術が始まった。勿論、手術中も意識ははっきりしている。

軽い酩酊感の中で思った。

”骨の一部にに穴を開けるだけ。電動ドリルで開けるんだったら一瞬だな”

足元で何やら処置する音が聞こえ、「それでは始めるよ」と、先生の声。その時突然の激痛が襲った!

 「どがーーーーー。痛いです。」
 「あ、ごめんごめん。局部麻酔の利きが悪かった悪かったみたいね。看護婦、もう少し麻酔追加して」

更に骨折部分に麻酔が追加され、しばらくして再開された。しかし、痛みは変わらない。
 「はい、りゃー、まだ痛いです」
 「だいじょぶだいじょぶ。すぐ終わるから」

激痛は続く。しかし処置も続く。ゴリゴリゴリゴリ・・ゴリゴリゴリ。

  「おぎゃあ、どりゃー、おぎいいいいいいいいいぃ」

痛い。痛いし、なんか変だ。電動ドリルの音がしない・・・・・静か過ぎる。「ゴリゴリ」しか感じられない。

そこで足元を見て状況が理解できた。

手回しドリルだ!

手回しドリルを持った医者が私の足を看護婦に押さえつけさせて、馬乗りになっている。そーして彼は言った。

「君は若いから骨が、か、硬いねーぇ!!」


何だか急に恐ろしくなってきた。恐ろしいのはいいとして、とにかく痛い。でも、痛いとはいわなかかった。やはり痛みを忘れるには叫ぶしかない!そう思った私は叫び続けた。

 「どひゃあーーーーー。うりゃああああああああ。」
 「あぎゃーーーー、ぐううううううううっく。いだだだだだだだだ。」

そのうち普通に叫ぶのに飽きてきた。


 「どりゃーーーー、ど、どどどど、どれみふぁそらしどー!いでででででで、電気あんまー!!・・うがががががが、ガマの油!!!!」

笑っている。看護婦と医者が笑っている。私は心の中でこう思った。

  ”やった恐怖に勝った!”


手術を受けてからの数日は痛みのため、迷わず痛み止めを飲んだ私だったが、救急病院であるその病院の大部屋では様々ことが起きた。

或る日の朝、メガネ禿げおじさんが運び込まれてきた。どうやら酒飲み過ぎてぶっ倒れたらしい。夕方には普通に戻ってなにやら話をしていたが、どうも話の要領を得ない。何を言っているのか良く分らないという状態だ。

 「こいつはヤバイ」

とまあ、その時は感じたが、感じただけでは何もいえないので、消灯時間になりベットに入った。うつらうつらしていたその時だ。

そのおじさんのベットのほうから叫び声が聞こえた。

 「後ろにぃ!そこか?!そこだな!」

びっくりして、おじさんのほうを向くと、おじさんがベットの上に仁王立ちになって何かを掴んだのが見えた。

「え?、なんじゃ?」と思った瞬間。

手に持った湯呑をを壁に投げつけた!おじさんは続けて、

 「そこだな。ほらそこだ。その陰に!そこに居るんですよ!!」

幻覚だ・・・・おじさんは幻覚を見ている。そうなのだ。おじさんはアルコール依存症。

平たく言えばアル中・・・あわててナースコールをした。やってきた看護婦に対して、

 「すみません。女優さん。女優さんが居るとも知らず、いや、あそこの陰に居たんですよ。黒い影が・・・・」
 「何も居ませんよ。何言ってるの?静かにしなさい!」

その場を収めとする看護婦の言うことをおじさんは全く聞こうともしない。

 「だから、危ないんですよ。このままじゃ皆喰われますよ!」

私は、「な、何に食われるんだぁああああ!」と思ったが、看護婦さんはその事を聞いてはくれなかったし、やがて、しゃべり続けるおじさんの家族という人たちが駆けつけ、おじさんを引き取っていった。

アル中にはなりたくねーなーと、思いながら私は寝る事にした。


さて、この入院生活はほぼ4ヶ月に渡るのだが、それだけ長くなると色んなことに遭遇する。というか、勉強になる色んな事が起きる。

例えば、人間の脳は右と左で、その処理機能が違うという事を理解できたりする。

或る日60歳代のオジサンが運び込まれてきた。その人は脳溢血で倒れたらしい。看護婦に聞いてみると、右脳に障害が起きていて、体も思うように動かない。入院直後は眠り続けていたが、徐々に元気を取り戻し、私にも話しかけてくるようになった。

ただ、少し問題があった。おじさんは私に向かって

 「隆弘、お前いつ来たんだ?」
 「えっ?いや、僕は”隆弘”じゃありませんよ。隣のベットにいる浅川です」
 「お前、隆弘じゃないのか?」
 「はい、違います」
 「じゃあ、何でここに居るんだ?」

混乱している。そーなのだ。右脳というのは、直観力とか、総合的な判断力などを司っているので、状況は認識できるが、正常な判断が出来ない。この、オジサンの混乱は、転院するまで続いた。

 「隆弘、お茶飲ませてくれ」
 「あ、あの僕は”隆弘”じゃないですけど、お茶ですね。注いであげますね。」
 「お前、隆弘じゃないのか?」
 「はい、違います」
 「じゃあ、何でここに居るんだ?」

このような会話が延々と続いたりする。或る日、またオジサンに話しかけられた

 「隆弘、小便がしたい」
 「あ、あの僕は”隆弘”じゃないですけど、小便ですね。今看護婦呼びますね。」
 「お前、隆弘じゃないのか?」
 「はい、違います」
 「じゃあ、何でここに居るんだ?」

まあ、これで、通常は看護婦が来て処置してくれるわけなのだが、その時は違った。いつまで経っても看護婦が来ない。どうやらちょうど交代時間でたまたまナースステーションが空だったようだ・・・・・・・・・・って、許されることではないな。

 「隆弘、小便がしたい」
 「あ、あの僕は”隆弘”じゃないですけど、小便ですね。看護婦読んだのですが来ないですね。」
 「お前、隆弘じゃないのか?」
 「はい、違います・・・いや、僕、隆弘です。」

なぜ私が「自分は隆弘だ」と答えたかって?

それは、このまま隣のベットでお漏らしをされても困るなと思ったからだ。そこで私は、不自由な足をベットから下ろして、オジサンの尿瓶を手に持ち、オジサンのパンツを下ろした。

その時、触れたオジサンのフニャチンの感触を今でも鮮明に思い出すことが出来る。後にも先にも他人のチンチンを握って尿瓶におしっこさせたのは、このときだけである。本当に介護などの仕事をしている人は尊敬に値する方達だなと再確認できた。


先日、右の脳に障害を負ってしまった患者さんの事を書いたが、或る日、左脳に障害を負った吉本さん(仮名)が入院してきた。左脳には、言語野があるので、右脳の障害とは違った症状が現れる。

実際には、この両方の患者さんが同じ時期に入院していた。私のベットの左側には右脳に障害を持つ人、正面には左脳に障害を持つ人という配置だ・・・。

吉本さんは言葉が不自由。毎日、院長先生が回診の際に、質問をする。

 「吉本さん。これ、なんですか?」

院長は左手にりんごを持っている。しばらく吉本さんは考えて答えた。

 「ラジオ・・・」
 「あー、これラジオですか?・・・ラジオじゃないですよ。もう一度聞きます。これなんですか?」
 「えー・・・なずび・・・・」
 「おしい!なすびじゃないですよ。食べるものですね。」
 「あ・・・・・・・っわかりません。」

このような会話が、退院するまで、毎朝続いた。その横で左の患者さんからは

 「隆弘、お前いつ来たんだ?」
 「えっ?いや、僕は”隆弘”じゃありませんよ。隣のベットにいる浅川です」
 「お前、隆弘じゃないのか?」
 「はい、違います」
 「じゃあ、何でここに居るんだ?」

という、攻撃が続くのだ。ちょっとこちらのほうが混乱してくる日常であった。


とび職の人って、落下事故など危険と隣り合わせの仕事で、大変だなーと思うのだが、ある日両腕骨折で入院してきた人が居た。まだ20代だと思うんですが、なれない入院生活で不自由そう。

何が不自由って、両手ともギブスさせられてつられた状態で日常を送るわけだから、一人じゃなにもできない。マイケルジャクソンの一人スリラー状態。そんなある日のことだった。

看護婦さんと本人との会話

「あなたお通じはあるの?」
「いや、実はないです」
「ないですって?いつから?」
「ええと、入院してからですね」
「ええっつ、全然ないの?」
「はい、まずいですかね?」
「だめじゃないの。そーゆーことはちゃんと言ってもらわないと」
「はあ」
「仕方ないわね。いまから、浣腸しましょう」
「えっ今からですか?い、嫌ですよ」
「だめよ、今からよ」

そういうと看護婦さん・・・この看護婦さんいわゆるこの病棟のドンみたいな人・・・・ナースステーションにとってかえして、浣腸器を持ってきた。

「えええ、いいですよ。自分で踏ん張りますから」
「でも1週間出てないんでしょう」
「いやだから、出します、出します。せめて自分でやらせてください」

”自分でやる”とは自分で浣腸するという意味なのだが、良く考えれば両手が動かないのに出来るはずがない。どうやら本人も相当動揺しているようだ。

勿論ここは10人の大部屋である。動揺しないほうがおかしい。その様な本人の申し出は、ドンである看護婦の耳に届くはずもない。

「はーい。つべこべ言ってないでおとなしくしなさい」
「いや、今は勘弁してください」
「だめだめ。私は午後から休みなの」

そう言いながら、看護婦はパジャマを脱がし、さっさと準備して浣腸が始まった。

「あ、ああ、あああああああああ」
「何うめいてるのよ」
「いや、あ、うううっあ、ああああああああああ!」
「さっさと出しなさい」
「ええ、で、出ません、あ、ででで出ます。あ、ああ、出ます出ますで増すddさ;だいh:@fjej:じ9」

(後半は言葉にならなかったようだ)

看護婦はさっさと仕事を済ませ、去っていった。残された彼はすでに放心状態・・・・可愛そうだ。

勿論、看護婦さんもお仕事、本人の為にも糞詰まりはよくない。ただ、一言言わせていただきたいことがある。

昼飯の直前に大部屋で浣腸するのはやめてくれぇー

足の骨折って移動が出来ないのが辛い。入院中も後半は松葉杖で移動できるようになったがしばらくは、全く動けなかったわけだ。先に浣腸されちゃった患者さんのことを書いたが、私自身も、手術が終わるまでは、動けないでベットで用を足していたいたわけで、用が済んで看護婦さんを呼ぶのが辛かった。


ある日の夜、すでに消灯時間を過ぎ、うつらうつらしていた時、それは起こった。

”ジリリリリーン、ジリリリリーン、ジリリリリーン”

何事かと飛び起きて周りを見回す。しかし、聞こえるのはけたたましい警報の音だけ、周りの患者さんも起きて騒ぎはじめた。

 「なんだ?何が起こった?」
 「火災警報だ!」
 「家事か!」
 「家事だぞ!」

いわゆるパニックである。動き回れる患者さんが病室から飛び出していく!

そのときの自分は・・・・動けないのである。

 「え、何?何?なにぃーーーー?」

パニックである。これは怖い。何しろ、けたたましいサイレンがなる中、骨折した足の為半身しか起き上がれないのだ。

”ヤバイ、どうする?手だけで移動できるのか?どうやって階段を下る?エレベーターは無理だろうな、病院で焼死は嫌だな、ああ、まだお見舞いでもらった馬刺し食ってないぞ!”

色んな想いが駆け巡る。

結局、火災報知器は誤報だという事が、飛び出していった患者さんの話で分る。しかし警報は鳴り止まない。鳴り始めて20分位して、やっと鳴り止んだのだが、その間一度も院内放送もなかった。

その間、見かけた唯一の病院関係者は、なぜかハンマーを片手に走り去っていく院長の姿・・・・。

おかしいだろー?ちゃんと放送で「今のは誤報です」ってアナウンスするのが普通だろ!!頼むよ本当!


今回はちょっと視点を変えて入院中に僕が収得した技を書いてみよう。

入院後、とにかく暇をもてあます時期がやってきた。何もやることがないのである。これには参った。そこで、何気なく見ていたテレビのCMにインスパイアされた。そのテレビは次のような事を云っていた。

「我が家にコンピューターがやってきた。ジャンケンポン。カセットポン。」

まあ、本当にそんな事言っていたかはよく覚えていないのだが、そのフレーズで購入を決めた。見舞金をかき集め、友人に頼んで電気屋から買ってきてもらった。確か¥89,800だったような気がする。それがNECのPC-6001というコンピューターであり、自分で買ったはじめてのパーソナル・コンピューターだ。

当時としては珍しいグラフィックとPSG3和音が扱え、なおかつ10万円を切る低価格だった。

また、カートリッジROMを採用し、ホビーパソコンとして一気に普及することに。

これにははまった。とにかく時間はある、ひたすら内蔵されたBASICと格闘して、3日後には「じゃんけんゲーム」というのを作った。要は単純、ランダムにパソコンが出すじゃんけんと勝負して、10回のうち何回勝つかというだけ・・・・・しょぼい。

しかし、これが元で私のパソコン暦が始まるのだ。それ以後、PC-9801、MSXなどたくさんのPCを使いMACにはまり、とうとう学校でパソコンを教えるまでになってしまった。

ほんと、あの事故がなかったら、パソコンを買う事も遅れていただろうし、その後音楽をパソコンで作るなんて事もなかったかもしれない。いやあ、転んでもただでは起きないってのを地でいったなと、我ながら思うのであった。

しばらくして野球ゲームを作った(初めてグラフィック機能を駆使して自分では頑張ったつもり)んだが、自分自身が野球を知らないので、「セカンドゴロなのに三塁打」とか出ちゃって野球好きの友人から散々馬鹿にされた。やはり、知らないものは作らないほうがいいな。


その日は新しい患者が入院してきた秋のある日だった。

彼とは、年齢が近い事もあり、すぐに打ち解けて院内の喫煙室でいっしょに世間話をする事になった。秋の日差しは思ったより強く、喫煙室の白いレースのカーテン越に、黒いソファーに縞模様を作っている。

そのソファーに腰掛けた彼は、ゆっくりとタバコをポケットから取り出し、ライターで火をつけた。逆光の中でタバコの煙が渦を巻いている。私のほうから尋ねた。

 「あのう、見た所どこも悪くないようですが、内臓系の疾患ですか?」
 「いや、偏頭痛がするんですよ」
 「そうですか、頭痛ってきついですよね」
 「もう2年近くに成るんで慣れたといえばなれたんですけど、やっぱり我慢できない時があって、今回も入院する事にしたんです。」
 「えーでも、ここ救急病棟ですよね。でしたら脳神経外科とか行かれたほうがいいんじゃないんですか?」
 「そうなんですが、昨日発作起こしてしまって、急だったので救急車呼んでもらったんですよ」
 「あーそうなんですね」

そんな話をしながら2人してタバコをすっていたのだが、ふと見ると彼の肩がかすかに震えている。

 「あれ?大丈夫ですか?なんか震えてませんか?」
 「いや、大丈夫です。」
 「顔色悪いですね。」

彼は「大丈夫、大丈夫。」と言いながら、だんだん、ソファーの上で肩を丸め膝を抱えだした。

その時、何か嫌な予感がしたのだ。

 「あ、それじゃあ僕病室に帰ります。」

その頃私は、松葉杖だったが、その嫌な感覚から逃れたいという想いから、足早にその場から逃げ出した。

その直後だった。

 「ヅアーーーーッ、アーーーーーーッ」

その彼が喫煙室で暴れだした。とにかく目に見えない何かと格闘しているような彼の動きは一種の非現実感を私に与えた。”ここは救急病院である。その、病棟の喫煙室で男が暴れている”一瞬、事の事態が良く理解できなかったが、慌てて看護婦を呼び行った。


看護婦が慌てて喫煙室に飛び込んだが、彼は止まらない。声にならない声で、叫び続けている。時折聞こえる単語は「頭が!」「痛い!」「割れる」・・・・。

やっとの事で3人がかりで押さえつけられた彼は、そのままズルズルと病室まで連れてこられた。病室で叫んでいる。

「助けてください。割れそうだ。頭が、割れそうだ。」

押さえつけていた一人の看護婦が「私先生呼んできます!」といって走り去った。彼は床の上で二人の看護婦から押さえつけられ、口の中にタオルをねじ込まれようとしてた。しかし、女性の2人の力では、押さえつけられない。

そこで、同室の患者さんたちも手伝って彼を押さえつける事にした。彼らも病人である。しかし、そんな事は言っていられない。そのうち一人の患者さんが彼の上着からあるものを見つけ出した。

 「おい、これポン器だよ!、やっぱこいつシャブ中だぜ!!」

ポン器とはいわゆる覚せい剤の一種である塩酸メタンフェタミン(通称ヒロポン)を打つための注射道具の事である。

 「やべえ!こりゃまずいぞ、先生まだかよ!!!」

彼は数人の患者と看護婦に押さえつけられながらも、時々すごい力で彼らを振り払おうとしている。そこへやっと先生が到着した。先生は彼に馬乗りになると肩口に鎮静剤を注射した。しかし、覚せい剤中毒患者の彼には効き目がない。やっと常人の3倍の鎮静剤を打って、彼の様子は落ち着いた。

この間、やはり私は何も出来ないでベットに座っていた。点滴打ちながら彼を押さえつけていた患者もいたのに、私は、何も出来なかったのである。しかも、彼の様子がおかしいのを察しながらも、喫煙室から逃げたのだ。このことは、足が動かない自分にとって、けして不合理な事ではないと、納得も出来るのだが、ある種の後悔にも繋がった。

後日聞いた話だが、そのポン器を見つけた患者は、僕より前にその彼と話をしていたらしく、彼について次のようなことを言っていた。

「この前暴れて連れて行かれたアンちゃんいただろ、あいつは2年前に車で大事故にあって、脳に障害を負ったらしんだよ。んでまあ、ヒドイ頭痛に悩まされて、それからヒロポンに手を出したらしいんだぜ。あんたも薬だけには手を出すなよ」

何だか、今考えてもちょっとやるせない事件だった。


さて、バイク事故によって長期の入院を余儀なくされた私は、一時退院して、そのとき付き合っていた彼女の家に転がり込んでいた。

そんなある日、コタツの中で寝返りを打った際、右足に違和感を覚えた。

 「あれ?なんかグキッって音がしたんだけど・・俺の脚」

それに骨折したところが痛い。しかし、先生はもう大丈夫だからリハビリしろって言ったよなぁ・・・気のせいか?

病院まで結構距離があって、なかなか行けなくなった私は、松葉杖をつきながら自分でリハビリを始めていた。例えば松葉杖を使わず近くのコンビにまで歩いていくのだが・・・骨折したところが痛い。どちらかというと激痛だ。

しかし、この痛みに耐えれば直るのだと思い、激痛の中リハビリを続けた。その期間約1ヶ月。それはもう、昔のど根性ドラマ並みである。

そうして、実家に戻って地元の病院に見せにいった。

”これで、相当回復しているはずだ。だって、あの激痛に耐えながらも自分でリハビリしたんだもの”

そんな気分で診察の結果を聞きに行ったら、レントゲンを見ながら先生がこういった。

「あーーーこれまだ折れてるね。ほら、スパッと折れてるでしょ?軟骨だけで繋がってるよ」

「ガーン!」

見事・・・そう、見せられたレントゲン写真は見事に斜めに亀裂の入った私の右足・・完璧に折れている。そのまま私は、またもや石膏で固められ、ギブスをはめられた・・・・・。

ギブスに固められた右足をいたわりながら実家に帰りながら思った。

 「あ。ギブスにすると痛くないな」

当然である。

それまでの痛みは嘘のように消え、松葉杖をつきながらではあるが、揚々と帰宅した訳だが、そのあとどっと疲れが出た。その疲れというのは、どちらかというと肉体的というより精神的なものであった。

 「え、じゃあ、この数か月はなんだったんだー!」

やっと少しだけ怒りがこみ上げてきた・・・・・・遅い!

しかしながら、私は怒りを持続させる事が性格的に出来ない、しばらくすると、怒りも収まり、部屋で寝転んでいたのだがどうにも体がだるい。

そういえば、骨折からすでに4ヶ月以上経っているにも関わらず、体力が戻っていない。なーんだか、いつもからだがだるくて長時間おきていることができない。


まともな治療を受けてギブスも取れ、リハビリの毎日が始まった。そうこうしているうち。正月も明け、また学校に行かねばならなくなった。

それまでは、折れた足のまま、松葉杖をついて学校に通っていた。

しかも卒業研究がレーザーホログラフィーと呼ばれる立体写真プロセスの研究だった為、実験は振動のない夜中しか出来ない。所属は芸術学部の写真学科だったが、この為、4年生の後半はほとんど工学部に入り浸り状態。

昼間授業を受けた後、工学部に向かい、仮眠を取って深夜2時ころから実験を始め、そのままソファーで寝て朝の授業を受けることも度々あった。一度は、授業の前に教室について、廊下でそのまま寝てしまい。教授に起こされる事もあった。

そんな生活を送っていたわけだが、さすがに疲れてきた。体の調子は相変わらず良くない。というか、「もういいだろう」という気持ちになってきた。実家が写真屋であることも影響して、その頃は

”大学卒業しなくても実家の写真屋があるので、就職には困らないし、これ以上大学行っても意味ねーなー。少ない単位とるのにもう一年大学行ってもしょーがないじゃん。”

と、思いだしたのだ。そこで、思い切って正月明けてからは大学には行かないことにした。

結局、投げ出した卒研と、それ以外2単位が不足し、授業料も払わなかったので、「除籍」ということになった。

しかし、本当の問題はこの後に起こるのだ。


大学を辞めた後、実家の写真屋を手伝い始めた。

しかし体の調子が悪い。10時頃やっと起きて数時間すると起きていられなくなる。午後の2時には昼寝しないと体力が持たない。夜は10時には寝てしまう。

最初は事故のため体力が落ちているだけかと思ったがどうも様子が変だ。とにかく体がだるくて、右の脇腹に痛みがある。

そこで病院にも行ってみたが原因が良く分からない。

しかし、とにかく仕事にならないのだ。まともに動けない。酒を飲むと2日酔いどころか3日くらい後を引く。どう考えても内臓系の疾患だ。

しかしやはり病院では「ちょっと肝臓が疲れていますね」位の事しか言われない。

その症状は骨折して入院していたときから始まっていた為、その病院でも胃カメラや大腸ファイバーなどで検査したが、「だいじょうぶですよ。胃腸はとってもきれいです。」と、言われた。

しかし、元々胃腸が弱い私にとって胃腸の痛みはすぐに分かる。だからこの痛みは別の臓器だという確信があって、勇気を出して院長にも相談した。

「先生、あの、これ胃腸の問題じゃないと思うんですよね。どうも痛みの場所が胃腸とは違うんですよ。」

「なーに言ってるの?僕らは専門家だからね。僕らの見立てでは異常ががないんだから心配し過ぎだよ。」

といった感じで取り合ってくれなかった。


熊本に戻ってからも何件かの内科医の所を回ったが答えは同じ。結局原因は掴めなかった。

そこで仕方なく西洋医学での治療を諦めて、東洋医学の治療を受けることにした。

最初の受診日あっさり言われた。

「あ、すい臓と脾臓やられていますね。このままほっておくと重大なことになりますよ」

それで納得した。特に油物を食べた後、右のわき腹、アバラの一番下の奥に痛みが生じる。というより普段から鈍痛がある。きついときはその痛みで動けなくなる。排泄物が灰色になる。そんな症状の全てが説明できる。

この痛みは、先にも書いたように入院中から始まった。入院中はいつもベットに寝た状態から足を伸ばしたまま上半身だけ起き上がっていた。その為わき腹を圧迫した状況で長いこと座っていたわけだ。また、入院中の大量の薬の投与も無関係ではないだろう。

東洋治療では様々なものを体験した。

西式健康法というのを基本として、頸骨の矯正、温冷浴と呼ばれる入浴方法、すいそくかんと呼ばれる呼吸法、定期的な運動、ヨガもやったし、食事制限も行った。特に結婚してかららは元妻の協力も得てマクロビオティック(玄米生食・・いわゆるベジタリアン)も2年くらい実行した。

とにかく、この間は、友人との旅行を計画しても当日の朝になって体調が悪くなり、体全体がしびれ始め、旅行を断念しなければいけなかったり、「自分がやりたいことが出来ない」というジレンマの中で暮らしていたのだ。


東洋治療で少しづつ体力が戻ってきていた事故から7年くらい経ったある日の朝、目を覚まして何気なく両手を伸ばし大あくびをした。その瞬間。

「バチッ!」

というような、何かが弾けた様な感覚を体の中に感じた。「なんだ?今の?」そのとき直感した。「あ、癒着していた何かが外れたんだ!」

それまで、いつも何かに引っ張られるような痛みを右わき腹に抱えていたわけだが、その痛みがその日から消えた。それから、本当の体力が戻ってきた。結局普通の人と同じような生活が出来るまで約10年近くかかった。

一度の事故とはいえ、このために引き受けた体の問題はあまりにも大きかった。

体力は復活したが、今でも酒はあまり飲めなくなった。また、無理をするとやはりすい臓が痛む。

教訓

1.体が治るのであれば西洋治療でも東洋治療でもなんでもいい!

今となって思うのは、西洋的治療方法は素晴らしい成果を出すことができるが、それが至上の策とは言い切れない事もあるということ。東洋的な治療にも効果のあるものは沢山あって、自分にあった治療法なら何でもいい。体が治ればプラシーボだろうと何でもいい!!

西洋的考えか方としては、病気の原因を確定してそこから治療方法が確定するが、その診断に問題があれば当然治療方法も見当違いになる可能性はある。特に覆道的な要因が絡み合っている場合には特定には時間がかかると考えた方がいいだろう。

それに対して東洋的な治療は、体全体をシステムと考えて、全体の機能のバランスをとる形で行われ、時間をかけてそれらシステムのバランスを取り戻すのには向いている。

緊急的な疾患には西洋的アプローチ、慢性的疾患には東洋的アプローチと柔軟に切り替えた方がいいだろう。

2.普通に暮らせる幸せを実感。

本当に何もできない事の虚しさを実感できた。やりたいことがあっても中途半端にしかできない。その為、今は思いついたら即実行という癖がついた。何もできなかったときの反動でもあるが、それが今の自分を作っているのは間違いない。

3.思い込みは禁物。

これは1とも関係あるが、何かのに固執すれば可能性を失うという事。様々な可能性に寛容になって試してみるという実験を大事にしたほうがいい。

4.健康を維持したければ正しい食生活と正しい生活習慣が一番大事

何をして正しいと判断するかは難しいとは思うが、基本的な食生活の改善は健康の為の最重要課題であることは、間違いないだろう。その点日本食は日本人の体質にも合っているだろうし、厳密に菜食を実行するのは難しいにしても、できる限り古来の日本食に近いものを常食としたほうが、体調は良くなる。普段が粗食であれば時々普通のご馳走を食べても体は処理できる。そういったものを全く食べないというのも逆に難しい。

ベジタリアン時代、お呼ばれした時など、相手の好意を断るのは問題だと考えて、そんな際は普通に食事していたが、その反動がどうしても翌日や翌々日まで出てしまっていた。普段食べない肉を食べてしまうと体がきつい。このため、ある程度の毒は毒として摂取したほうがいいと判断して、少しは食べる事にした。

また、生活習慣もとても重要なのが分かった。毎日の運動(今だと考えられないが、その当時は毎日ジョギングしていた)と十分な睡眠は必須。

5.人は死ぬ

これまた当たり前のことだが、人は死に向かって生きている。だからこそ今を生きる必要がある。日本人にとって死は忌むべきものであり、そのことを積極的に考えることは少ない。しかし、例えばチベット仏教では「死」を一つの到達点として、如何に死ぬのか考えるように教えている。彼らは、生まれ変わりを信じているので、良い来世を迎えるためには執着を捨てなさいと教えている。

このため、如何に死ぬのかと言うのはとても大事だという事。死の直前までなにかに執着し、心残りを持ってそれを迎えるなんてまっぴらだ。

さて、ちょっと、シビアな話になってしまったが、要はこういうことだ。

「若いと無理をしても何とかなると思ってしまうが、一度壊した体が100パーセント元に戻ることはありえない!だから無理はしないように!!」

それでは、長々とこの話に付き合ってくれた人。有難う。これでこの話は終わります。


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