考えて見ると、我々の世代位が1番平和で良い時代だったのかもしれないと思う。戦争もなかったしね。
さらにはテクノロジーの発達による劇的な社会構造変化を体験できた。どんな技術であれその黎明期と言うものが1番面白い時期なのである。
今後訪れるであろう自律分散型社会と言うものにはメリットもたくさんあるが、デメリットもそれなりに多い。それは今の時代でもすでに兆候が現れている。
地域と言うコミュニティーが崩壊することで、その地域の意思決定において分散型システムがうまく機能しないこともあるだろう。
これはこれまでにも似通った形での仕事のやり方をやってきたことで体験しているが、そのコミュニティーの意思決定と言うのか難しく、方向性が定まらない傾向にある。また参加する個々の意識が離れれば当然コミュニティーそのものの力が弱くなっていく。
リーダーシップが発揮できる中央集権的システムは、逆に言えばブルドーザーのごとく物事を進める力がある。それに対して自律分散型システムと言うのは、コミュニティー全体としての総和による意思決定になるので、ブルドーザーにはなれない。
これまでは企業対個人だったり国家対個人などで、その対象がわかりやすい状況だったが、問題があっても何をどうすればいいのかその意思決定が難しくなるだろう。
単なる分散型のシステムであれば、そこに全体へのオーダーと言うものが存在している。しかし自律分散型となると全体のオーダーと言うもの自体が存在していない。まぁだからこそグローバルコネクションが実現できるんだけど。
それでもやはり文明は進んでいく。
でもって、今回使った熊本市の北岡神社の写真を見ていて気づいた。
「神道って基本的には自律分散協調型システムなんじゃ?」
神道の基本はアニミズムと呼ばれる自然信仰から成り立っているが、それが地の神などを祀ることから神社という形式が出来上がったのではないかと言われている。
古墳時代にはそういった遺跡らしきものが発見されているが、基本的に神道として束ねられるのは、天皇との関係性が高い。欽明天皇の時代に正式に仏教が認められ、その「蕃神(あだしくにのかみ)」に対峙するように日本の神々を「国つ神」として呼ぶこととなる。
神道における特徴とは、他の宗教と比べると、経典のようなものや教義などはない。他の宗教には開祖が存在している場合が多いがそうではない。自然発生的に発生し、それらが連携しているわけだ。
そのうえで、先に書いたように戒律的縛りがないのも自立分散協調型システムの要件に重なっているだろう。自分自身がその神社に惹かれるのはそういったバックボーンがあるからだろうと思う。