2015年2月3日FBに書いた記事から転記
何度も何度も阿蘇に通っているのには理由があります。
最初の頃、満月の深夜に阿蘇の砂千里までカメラを抱えて行った時のことでした。
満月に照らされた登山道は黒黒として足元もよく見えませんでしたが、目が慣れてくるとまるで、昼間の道を歩いている様な感覚になりました。
それでも、月が雲に隠れると、世界はのっぺりと打ち沈み、月光が差すと突然別の世界になったように立体感が生まれるのです。
その中、三脚と、カメラを担ぎ、一人登っていきます。
聞こえるのは風の音と、ザックッザクという自分の足音。遠くに火口の地鳴りとかすかに虫の音がするばかり。
夜空には満天の星と月の光、そして時折、ちぎれ雲がすごい速さで流れていきます。
勿論、周りには誰も居ません。
こんな時に感じるのは自然の美しさではありません。
それは「恐怖」です。
恐怖は、背後からやってきます。後ろから何かが来るのではないか?この、山道を一人滑り落ちたらどうなるのだろうか?そういった恐れがその場を満たしていきます。
それでも、その情景を写真に収めたいという気持ちから私は一歩一歩足を進めます。登り坂はまるでそのことを拒むようにそこに在り、私は一人息を切らせながら進んでいくのです。
恐怖は更に膨らみます。
「私は、この自然の前では小さい存在だ。私は基本的には無力だ。」
そんな思いが生まれます。その時思ったのです。
”ああ、これだ。この恐怖を忘れた時から私達は自然に対して傲慢になったのだ”
これは私にとって重要な体験でした。
恐れを知ること。現代社会の中で忘れてしまった私と地球との関係を感じること、それなしに、いろんな事を判断してはいけないということ。
それを時々体の中に入れなくてはいけません。
そうして、阿蘇に通うようになったのです。
追記