WE LOVE   Click to listen highlighted text! WE LOVE Powered By GSpeech

完璧であることを強要される私達

完璧であることを強要される私達

私たちは子供の頃から点数で評価され、社会的序列の中に組み込まれてきた。それら他者からの評価がすなわち、私の価値であると思い込まされ、意識的にも無意識的にも価値ある人間に成れと言われ続けている。

しかし、概ねこの完璧な人間の定義というのは「社会にとっての完璧な存在」なのではないか?

だって、他者から評価である完璧は当然他者にとって都合のいい完璧が優先されると考えるのが自然であると思うのだ。

しかし、評価され値踏みされる時代において、「あなたにとって完璧な私など私ではない」という簡単な事実も埋没しがちだ。

これもまた、つまりは、他者にとって都合のいい完璧は数多あって、それに合わせようとしても全部違うので無理だ・・・。

したがって、結論は下記にある。

「てめぇ等の思う壺にハマッてやるかよ。バカヤロー」

とまぁ、言葉は悪いのだが、思ってしまうわけだ。

しかし、素直な子どもたちは、これら他者評価が自分の価値だと考える。しかし、その評価自体が流動的である為現実とのギャップに苦しむ。元々相対的なものでしか無い価値というものは、考え方一つで変わる訳だが、それにそって生きろと強要されてしまえば、混乱して当然だろう。

この点において、現代教育は社会にとって都合のいい人間を作ってきたという側面がある。子どもたちにとって初めて接するのが「学校」という社会であり、その学校において、社会性が重要視されるのは当然ではあるが、それがひいては個人の存在意義を壊す結果になっては問題だ。

他者の思う壺にはまっている場合

自分がどうあるべきかを、他者視線で見る癖がついている為、何をしていいかわからないし、何が正しいかもわからない。こういった状況では自立したそれぞれの思考というのが難しくなる。

我々の価値観は、周囲からの影響を多く受けている。例えば、物事の善し悪しにしてもそれは日本に居て、それら風習や、日本語そのもの等によって定義づけられているため、それを盲目的に信じても、他者依存の価値観に縛られるだけだろう。

例えば地方公務員になるという選択をした場合でも、その選択の根拠が、「安定していて社会的にも価値があるから」という理由だけだった場合、うまくいかないかもしれない。それより「公共的仕事によって社会に奉仕出来るから公務員を選んだ」のであれば問題ないが、単なるテクニッとしてその答えを持っているのであれば、将来的にそれらとのズレから苦しむことになるかもしれない。

思う壺にハマった結果

この、状況に於いて問題が生じると概ね2つの方向に流れていくことになるだろう。

1.問題の原因が他者にあると考える場合

他者の価値観に支配されていると、その多様な価値観に振り回されることになるが、概ね、自分が他者に支配されているということには気づいていない為、自分の中に「常識」というものを前提に価値観を構築しないと精神的にも崩壊する。このため、自分の感揚げと違うものを自分の常識に照らし合わせ、排除しようとする。これらは誹謗中傷の原因になることも多い。

おおむね、誹謗中傷する物は自分は常識的人間だと思っているのかもしれない。もちろんもっと極端で人格的に問題を抱えている人も居る訳だが、それにしても、よく知らない他者に対して、自信をもって中傷するタイプは、自分を常識的人間だと思っているだろう。

 誹謗中傷というレベルまでにいかずとも、仮想敵を作って否定することもある。

人間関係において、自己の安定を求めようとすると、他者との関係性が重要になってくるわけだが、問題が発生した場合、コミュニケーションによっ、関係性を維持するより、仮想的な力関係を一方的に構築して、そこに原因を求めたほうが楽だろう。このため、相手の真意などを確かめるための努力をしないで相手との位置関係を決めてしまう。

「あの人のせいで私は不幸だ」

そのあの人との対話は十分なのか?考えるべきだろう。

2.自分自身に原因があると考える場合

 基本的には、そこから始めるのが正しい。すべての事象は、私の振る舞いと認識からから生まれているため、私の行動が変われば世界も変わる。

しかし、この意識が原罪的なものと結びつくと厄介だ。

自傷的行為に向かい、自分で自分を壊していく。世界と私との間に壁を作り、分離された部屋の中で、強大な外の世界と隔絶されて生きることを望む。

その疎外感は結局1番の行動も引き起こす。

 評価社会からの逃走

他者からの評価が必要なのは社会構造がピラミッド型のヒエラルキーを持っているからでもある。そういったヒエラルキー構造の場合、自分がその中でどの高さに居るかというのが重要になってくる。それらは勝ち組負け組のような評価基準につながっていく訳だが、それらは貨幣経済などの社会的構造に依存している表面的な評価であることを自覚すべきだろう。「勝ち組負け組」など、実に下らない価値基準である。

また、 変化の激しい現代において、安定した職業というのはほぼ存在しないと考えたほうがいい。

それより、自分を知ることで自分のやることを自律的に決める努力をすべきだろう。

具体的には何をすべきか

これら前提から自立して考える事ができる私を作るためには幾つかの必要な事がある。

1.すべての価値観を疑う

他者が言うことをそのまま信じるのを止める必要がある。これはマスコミにも言えることだが、偉い人が言ってるので間違いないなどと思ったらいけない。すべての現実は多層的に存在しているので、見方を変えれば結論すら変わってくる。このために何かを知りたければ「反対意見の人のコンテンツを見る」癖をつけておくといいだろう。みたいものだけ見ていても物事の本質はつかめない。

そういった事を恣意的にやっていると、だんだん他者の評価の問題が見えてくるし、それに一喜一憂することもなくなる。

2.交渉力は生き抜く力

他者と行うべきは評価ではない。まずはコミュニケーションであり、それなしに私を作ることは出来ないと思った方がいい。めんどくさい相手であれば余計に連絡をとって、交渉すべきだろう。

3.自分の好きを貫く

私自身も学生時代の通知表で5段階評価で2しかもらったことのない音楽や美術の分野でも教師をしている。それが可能となったのは他者の評価を気にしなかったからだろう。それを無視してやりたいと思ったことをやった結果、今のような形になった。そして、それは私でなくても可能なことなのだが、それを教えてくれる人は少ないだろう。

  Click to listen highlighted text! 完璧であることを強要される私達 評価 (1) 私たちは子供の頃から点数で評価され、社会的序列の中に組み込まれてきた。それら他者からの評価がすなわち、私の価値であると思い込まされ、意識的にも無意識的にも価値ある人間に成れと言われ続けている。 しかし、概ねこの完璧な人間の定義というのは「社会にとっての完璧な存在」なのではないか? だって、他者から評価である完璧は当然他者にとって都合のいい完璧が優先されると考えるのが自然であると思うのだ。 しかし、評価され値踏みされる時代において、「あなたにとって完璧な私など私ではない」という簡単な事実も埋没しがちだ。 これもまた、つまりは、他者にとって都合のいい完璧は数多あって、それに合わせようとしても全部違うので無理だ・・・。 したがって、結論は下記にある。 「てめぇ等の思う壺にハマッてやるかよ。バカヤロー」 とまぁ、言葉は悪いのだが、思ってしまうわけだ。 しかし、素直な子どもたちは、これら他者評価が自分の価値だと考える。しかし、その評価自体が流動的である為現実とのギャップに苦しむ。元々相対的なものでしか無い価値というものは、考え方一つで変わる訳だが、それにそって生きろと強要されてしまえば、混乱して当然だろう。 この点において、現代教育は社会にとって都合のいい人間を作ってきたという側面がある。子どもたちにとって初めて接するのが「学校」という社会であり、その学校において、社会性が重要視されるのは当然ではあるが、それがひいては個人の存在意義を壊す結果になっては問題だ。 他者の思う壺にはまっている場合 自分がどうあるべきかを、他者視線で見る癖がついている為、何をしていいかわからないし、何が正しいかもわからない。こういった状況では自立したそれぞれの思考というのが難しくなる。 我々の価値観は、周囲からの影響を多く受けている。例えば、物事の善し悪しにしてもそれは日本に居て、それら風習や、日本語そのもの等によって定義づけられているため、それを盲目的に信じても、他者依存の価値観に縛られるだけだろう。 例えば地方公務員になるという選択をした場合でも、その選択の根拠が、「安定していて社会的にも価値があるから」という理由だけだった場合、うまくいかないかもしれない。それより「公共的仕事によって社会に奉仕出来るから公務員を選んだ」のであれば問題ないが、単なるテクニッとしてその答えを持っているのであれば、将来的にそれらとのズレから苦しむことになるかもしれない。 思う壺にハマった結果 この、状況に於いて問題が生じると概ね2つの方向に流れていくことになるだろう。 1.問題の原因が他者にあると考える場合 他者の価値観に支配されていると、その多様な価値観に振り回されることになるが、概ね、自分が他者に支配されているということには気づいていない為、自分の中に「常識」というものを前提に価値観を構築しないと精神的にも崩壊する。このため、自分の感揚げと違うものを自分の常識に照らし合わせ、排除しようとする。これらは誹謗中傷の原因になることも多い。 おおむね、誹謗中傷する物は自分は常識的人間だと思っているのかもしれない。もちろんもっと極端で人格的に問題を抱えている人も居る訳だが、それにしても、よく知らない他者に対して、自信をもって中傷するタイプは、自分を常識的人間だと思っているだろう。  誹謗中傷というレベルまでにいかずとも、仮想敵を作って否定することもある。 人間関係において、自己の安定を求めようとすると、他者との関係性が重要になってくるわけだが、問題が発生した場合、コミュニケーションによっ、関係性を維持するより、仮想的な力関係を一方的に構築して、そこに原因を求めたほうが楽だろう。このため、相手の真意などを確かめるための努力をしないで相手との位置関係を決めてしまう。 「あの人のせいで私は不幸だ」 そのあの人との対話は十分なのか?考えるべきだろう。 2.自分自身に原因があると考える場合  基本的には、そこから始めるのが正しい。すべての事象は、私の振る舞いと認識からから生まれているため、私の行動が変われば世界も変わる。 しかし、この意識が原罪的なものと結びつくと厄介だ。 自傷的行為に向かい、自分で自分を壊していく。世界と私との間に壁を作り、分離された部屋の中で、強大な外の世界と隔絶されて生きることを望む。 その疎外感は結局1番の行動も引き起こす。  評価社会からの逃走 他者からの評価が必要なのは社会構造がピラミッド型のヒエラルキーを持っているからでもある。そういったヒエラルキー構造の場合、自分がその中でどの高さに居るかというのが重要になってくる。それらは勝ち組負け組のような評価基準につながっていく訳だが、それらは貨幣経済などの社会的構造に依存している表面的な評価であることを自覚すべきだろう。「勝ち組負け組」など、実に下らない価値基準である。 また、 変化の激しい現代において、安定した職業というのはほぼ存在しないと考えたほうがいい。 それより、自分を知ることで自分のやることを自律的に決める努力をすべきだろう。 具体的には何をすべきか これら前提から自立して考える事ができる私を作るためには幾つかの必要な事がある。 1.すべての価値観を疑う 他者が言うことをそのまま信じるのを止める必要がある。これはマスコミにも言えることだが、偉い人が言ってるので間違いないなどと思ったらいけない。すべての現実は多層的に存在しているので、見方を変えれば結論すら変わってくる。このために何かを知りたければ「反対意見の人のコンテンツを見る」癖をつけておくといいだろう。みたいものだけ見ていても物事の本質はつかめない。 そういった事を恣意的にやっていると、だんだん他者の評価の問題が見えてくるし、それに一喜一憂することもなくなる。 2.交渉力は生き抜く力 他者と行うべきは評価ではない。まずはコミュニケーションであり、それなしに私を作ることは出来ないと思った方がいい。めんどくさい相手であれば余計に連絡をとって、交渉すべきだろう。 3.自分の好きを貫く 私自身も学生時代の通知表で5段階評価で2しかもらったことのない音楽や美術の分野でも教師をしている。それが可能となったのは他者の評価を気にしなかったからだろう。それを無視してやりたいと思ったことをやった結果、今のような形になった。そして、それは私でなくても可能なことなのだが、それを教えてくれる人は少ないだろう。 2022年12月30日 参照数: 3131 前へ 次へ Powered By GSpeech

 

 上のスピーカーマークをクリックすることで音声による読み上げが可能です。

Click to listen highlighted text! Powered By GSpeech