そういえば、数年前に胆管結石の手術を受け、胆嚢を切除した。その時は、まさに地獄のような激痛に襲われ、救急搬送されるというドタバタ劇だった。脂汗を流しながら、ただただ痛みに耐え、手術台に乗せられた時のことを思い出す。今となっては、こうして日常を生きているが、ふと考えると、もしこの出来事が過去の時代に起こっていたら、自分はそのまま命を落としていたかもしれない。医学の発展もなく、手術の選択肢もなく、激痛の果てに衰弱していた可能性は十分にある。
だとすれば、今こうして生きていること自体、いわば“おまけ”のようなものかもしれない。本来ならば終わっていたはずの命が、医療の進歩によって延長されたのだと考えれば、この時間はボーナスステージのようなものだとも言える。もしそうならば、ただ何となく過ごすのではなく、この「おまけの時間」をどう生きるのか、真剣に考えなければならない。
しかし、そもそも「どう生きるべきか」を考えることに意味があるのだろうか。結局のところ、人生には本質的な意味などないのではないか。何か崇高な目的が与えられているわけでもなく、生まれて、生きて、そして死ぬ。ただそれだけの存在だ。そこに意味を見出すかどうかは、結局その本人次第なのだろう。意味を作り出すこともできるし、何も求めずにただ漂うこともできる。
そうであるのにもかかわらず、気づけば日常の波に飲み込まれてしまう。目の前の仕事、些細な人間関係の悩み、支払いのこと、やるべき雑務……日々の課題に追われているうちに、「どう生きるべきか」という問いは後回しになってしまう。生きる意味を考える余裕などなく、ただ流されるままに時間が過ぎていく。
それでも、時折ふと立ち止まり、この命が「おまけ」なのだという感覚を思い出すことがある。そのたびに、本来意味のないこの人生に、何かしらの意味を持たせるのは自分自身なのだと改めて思う。ならば、せめてこの“おまけ”の時間を、自分なりに納得のいくものにしていくしかない。たとえそれが、他の誰かから見れば取るに足らないものであったとしても、最後に「これでよかった」と思えるように。