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誰も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくない。

誰も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくない。

他人との距離感が掴めなくて生きにくさを感じている人は案外多いのかもと思う。このため、「人様に迷惑のかからない様に生きなさい」などと言われても、何が迷惑なのかよくわからないし、いっそのこと、他人とは関わらず生きていきたいと思う場合も有るだろう。

確かにネットの世界では、匿名性を持つこともできるし、他者のフリもできる。さらには問題が有る関係性は遮断(ブロック)することだってできる。そこに自分の王国を築けば、誰も傷つけることなく生きていく事が可能だ。

「私は誰にも迷惑をかけずに生きていたいし、誰からも傷つけられたくない」

そんな気持ちになるのはよく分かる。私にしても思春期に今のようなネット環境があれば、そんなニートになっていただろう。

しかし、誰とも関わりを深く持ちたくないが、刺激は欲しい。外部からの刺激がなくなれば退屈な時間しか残らない。だから、受動的なエンタメ等で時間をつぶす。ネット動画を回遊したりネットゲーで刺激を取り入れる。私が欲しいものはネットの中にあると思う。そこでのアイデンティティーが私だと思う。現実世界の私は虚像でしかない。

でも、ここで少し考えてみるといいかも。

「私」が知っている「私」とは何者なのか?

そんなの普通に「私は私」と考えるかも知れない。

でも、「私」という意識を作っているのは、私そのものであるより、その環境との関係性であると思ったほうがいいのではないか?

例えば、「私は○○がしたい」という思いも、その基本となる〇〇に関しての定義や価値観は、言語や思想などを含む環境に依存して形成されたのではないか?

海外で生まれていれば、やりたいことは変わったかも知れない。

つまり、「私」信じている「私」自体はもっと薄い存在でしかないのかも。

「いや、だって、美味しいものは食べたいし、きれいな服は着たいし、誰かに認めてほしいし・・・そんな気も持ちも幻なの?」と、考えるだろう。

そんな感情が偽物だとまでは言わない。

ただ、”きれいな服を着たい”や”誰かに認めて欲しい”という気持ちには他者との関係性が必要になってくる。

誰にも見せる相手がいなければきれいな服という価値観も育たないし、環境が変わればきれいな服の定義も変わる。

そして私達はそういった他者の目を気にして生きているということになる。

つまりは、他者との関係性を構築できないと、そういった欲求自体を満たすことは出来ないし、感情すら何をどう認識するかという事で変わるということにもなる。

さらに、仏教的な考えだと、その「私」を捨てないと幸せにはなれないよと、言っている。私という存在を捨てると何が残るか・・・それはやっぱり関係性なのだと思う。

よって、私達は相互依存的に在る方が本来の姿だと思う。

それを迷惑ではなく、「助け合う」という思いに変えれば割と多くのことが解決するかも。

そして、それを人は「愛」と呼ぶ。

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心が傷ついたと感じる皆さんへ

そういった関係性の中で、私達は心が傷つくと感じることも多い。

しかし、本当に傷ついているのか?傷ついている「私」とは何かを考えてみれば、その「私」の存在自体が相対的なものである可能性が高い。

様々な関係性から傷つけられたと感じる。

ただ、私達が生きている事実において、その生命の本質的存在(魂とでも呼びましょう)自体は頂いたものみたいな存在で、それに触れることも傷つけることも出来ないと思ったほうがいいだろう。

例えば、「私」が死にたいと思ったとしても、心臓は動き続けるし、お腹も減る。そういった現象が発生する。

自動機械のように私は生きる選択をしているのです。

しかし、「私」という意志は死にたいと選択しています。

この「私」を無くせば良いということにもなる訳だ。そのためには作られた執着を捨てて、もっと客観的に自分を見る必要があるだろう。「私」という意識はそういったエネルギーの方向性を決める力しかないのだ。

「私」という意識は相互作用的に存在していて、本質的な私とは別のもの。

もう一度書きます。

誰も私の魂に触れることは出来ないし、自分ですらその魂を傷つけることは出来ない。その存在がベースにあった上で、「私」という意識は存在している。傷つくと感じるのはその小さな自我にすぎない。

 

 

 

  Click to listen highlighted text! 誰も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくない。 評価 (0) 他人との距離感が掴めなくて生きにくさを感じている人は案外多いのかもと思う。このため、「人様に迷惑のかからない様に生きなさい」などと言われても、何が迷惑なのかよくわからないし、いっそのこと、他人とは関わらず生きていきたいと思う場合も有るだろう。 確かにネットの世界では、匿名性を持つこともできるし、他者のフリもできる。さらには問題が有る関係性は遮断(ブロック)することだってできる。そこに自分の王国を築けば、誰も傷つけることなく生きていく事が可能だ。 「私は誰にも迷惑をかけずに生きていたいし、誰からも傷つけられたくない」 そんな気持ちになるのはよく分かる。私にしても思春期に今のようなネット環境があれば、そんなニートになっていただろう。 しかし、誰とも関わりを深く持ちたくないが、刺激は欲しい。外部からの刺激がなくなれば退屈な時間しか残らない。だから、受動的なエンタメ等で時間をつぶす。ネット動画を回遊したりネットゲーで刺激を取り入れる。私が欲しいものはネットの中にあると思う。そこでのアイデンティティーが私だと思う。現実世界の私は虚像でしかない。 でも、ここで少し考えてみるといいかも。 「私」が知っている「私」とは何者なのか? そんなの普通に「私は私」と考えるかも知れない。 でも、「私」という意識を作っているのは、私そのものであるより、その環境との関係性であると思ったほうがいいのではないか? 例えば、「私は○○がしたい」という思いも、その基本となる〇〇に関しての定義や価値観は、言語や思想などを含む環境に依存して形成されたのではないか? 海外で生まれていれば、やりたいことは変わったかも知れない。 つまり、「私」信じている「私」自体はもっと薄い存在でしかないのかも。 「いや、だって、美味しいものは食べたいし、きれいな服は着たいし、誰かに認めてほしいし・・・そんな気も持ちも幻なの?」と、考えるだろう。 そんな感情が偽物だとまでは言わない。 ただ、”きれいな服を着たい”や”誰かに認めて欲しい”という気持ちには他者との関係性が必要になってくる。 誰にも見せる相手がいなければきれいな服という価値観も育たないし、環境が変わればきれいな服の定義も変わる。 そして私達はそういった他者の目を気にして生きているということになる。 つまりは、他者との関係性を構築できないと、そういった欲求自体を満たすことは出来ないし、感情すら何をどう認識するかという事で変わるということにもなる。 さらに、仏教的な考えだと、その「私」を捨てないと幸せにはなれないよと、言っている。私という存在を捨てると何が残るか・・・それはやっぱり関係性なのだと思う。 よって、私達は相互依存的に在る方が本来の姿だと思う。 それを迷惑ではなく、「助け合う」という思いに変えれば割と多くのことが解決するかも。 そして、それを人は「愛」と呼ぶ。 心が傷ついたと感じる皆さんへ そういった関係性の中で、私達は心が傷つくと感じることも多い。 しかし、本当に傷ついているのか?傷ついている「私」とは何かを考えてみれば、その「私」の存在自体が相対的なものである可能性が高い。 様々な関係性から傷つけられたと感じる。 ただ、私達が生きている事実において、その生命の本質的存在(魂とでも呼びましょう)自体は頂いたものみたいな存在で、それに触れることも傷つけることも出来ないと思ったほうがいいだろう。 例えば、「私」が死にたいと思ったとしても、心臓は動き続けるし、お腹も減る。そういった現象が発生する。 自動機械のように私は生きる選択をしているのです。 しかし、「私」という意志は死にたいと選択しています。 この「私」を無くせば良いということにもなる訳だ。そのためには作られた執着を捨てて、もっと客観的に自分を見る必要があるだろう。「私」という意識はそういったエネルギーの方向性を決める力しかないのだ。 「私」という意識は相互作用的に存在していて、本質的な私とは別のもの。 もう一度書きます。 誰も私の魂に触れることは出来ないし、自分ですらその魂を傷つけることは出来ない。その存在がベースにあった上で、「私」という意識は存在している。傷つくと感じるのはその小さな自我にすぎない。       2022年02月08日 参照数: 6644 前へ 次へ Powered By GSpeech

 

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