多くの場合、私達はその実感を求め、私が私として存在することの意味を理解したいと思います。
そしてその存在価値こそ命の意味であると思い、その証を失うことに恐怖を覚えるでしょう。
しかし、私達は変化する存在です。
存在価値や存在理由などというものも同様に変化します。
「私は負っている役割を全うできない。だから私には価値がない。生きることは苦しみ以外の何物でもない。」
その思いは私を蝕んでいきます。
だったら、思いや考えという物自体の不確実を認めたほうがいいかもしれません。
つまり、「私達は何も知らないし何も分かっていない。」ということを知り、認めるということです。
そうすれば、価値があるとか無いとかに拘る必要もありません。だって、それ自体理解出来てはおらず、それは自分を歪めて否定するためだけに存在している概念だとわかるかもかもしれません。
記憶や概念は私を形作りますがそれと同時に私を牢獄に入れてしまうこともあります。そこから自由になれる事を解脱というのかもしれません。
わたしであってわたしであったもの、そしてわたしになるもの。
それらは同時に存在します。