WE LOVE   Click to listen highlighted text! WE LOVE Powered By GSpeech

アート作品とアーティストとの関係と日本の芸術

アート作品とアーティストとの関係と日本の芸術

友人のアーティストが「アーティストは望まれていること以外SNSなどに書いてはいけないの?」と、悩んでいたがそんなことはない。

アート作品の場合、それは何かを伝える手段でもあって、その何かはアーティストの心の中から生まれてくる。そのため、そのアーティストの環境や思想や背景なども重要となり、閲覧者はそれを知りたいと思う様になるだろうし、アーティストも伝えたくなるのは自然だ。

特にSNSがこれだけ一般化した今となっては当たり前の事だ。

それに対して日本の芸術の定義では「よい技術、美しい技術」といった、他者より優れている技術、技工、技法などを指すという概念から捉えられている部分が強いため、それら概念に縛られてアートを見てしまう場合もあるだろう。

アート=芸術ではない

実際、技法的な意味だけでアート作品を評価しようとすると「下手くそなのになんで評価高いんだ」といった場面に遭遇する。しかし、技法的に稚拙であっても斬新な表現方法であったり、そこに人の心を動かす何かがあればアートとして成立する。

本来アートと芸術の定義は曖昧だ。

このため、芸術の定義に引っ張られている人にとっては、アートが理解できない。そういった理由もあって、アーティストへの偏見も生まれやすいのが日本だと思う。例えばアーティストに人格的な完璧さを要求するといった部分だが、それは視点が違うだろうと思う。もちろんアーティストだから何してもいいと言うのは違うが、それにしてもSNSぐらい自由に書かせろよと思う。

また、芸術とアートとの間には、相関関係があるため、アート作品として認められたものが芸術作品として認知される事も多い。

それは概念上の現象であって、徐々に芸術の範疇にアートも取り込まれているのだが、人それぞれでの許容範囲は違うだろう。

アート活動の重要性

もともと現象というか世界というものは、多元的に存在している。すなわち我々の立場や思想などで物の価値も変わってくる。それは相対的というより多元的だ。日本人的価値観とアメリカ人的価値観は違うし、さらには個人の価値観も相当違うだろう。そういった中で、新たな価値を生み出しているのがアートだと言える。

アートは単に美的に優れたものだけを指してはない。そこには思想信条なども含め、物事を違った視線で見て新たな価値を作り出す。

もし、アートを含めアート的精神活動が停止したら、新たな視点を失い、我々の文化・経済・思想は停滞してしまうだろう。我々の文化は利便性だけで存在しているのではない。

これは人間にしか出来ない精神活動なのであって、我々のアイデンティティを形作りそれが様々な価値を生んでいく。

コロナ下においてドイツのメルケル首相は、「芸術支援は最優先事項」と語り、その養護に乗り出した。これは前記のアート活動が停滞するとどうなるかをメルケル首相が理解しているからの発言だと思われる。


 ドイツは⽂化の国であり、私たちは全国に広がる多彩な催し物(展⽰や公演)に誇りを もっています。ミュージアム、劇場、オペラハウス、⽂芸クラブ、そのほかにもたくさんあります。⽂化的供給が表現しているのは、私たちについてであったり、私たちのアイデンティティについてだったりします。コロナウイルスによるパンデミックは、私たちが共に営む⽂化的⽣活の深い中断を意味します。とくに影響を受けているのは多くのアーティストたちですが、いっそう深刻なのはフリーランスのアーティストたちです。現在の状況は不確かなままです。だからこそ私たち連邦政府、なかでも連邦⽂化⼤⾂モニカ・グリュッタースは、各州とともに関⼼を寄せていることがあります。私たちの⽂化的⽣活が将来にもチャンスがあり、そしてアーティストたちに橋が築かれることです。

芸術支援は最優先事項。ドイツ・メルケル首相が語った「コロナと文化」


それに対して日本ではどうかというと・・・初期の支援策に関してはそれなりに評価できるものであったが、考え方が違うとも言える。現在の支援はその対象がより大きな団体などに移っているような印象が強く、フリーランスのアーティストとへの支援は徐々に縮小化されている。

というより、コロナ以前のアーティスト保護の政策自体に問題があったとも言えるだろう。

アート存在のための自由

アートでは単に技巧的に優れているものだけにその評価が与えらられているわけではないため、その基盤となる環境は「自由であること」になる。この点では海外の方がその許容範囲は広い。

 過去行われた音楽イベントでも、「音楽に政治を持ち込むな」といった意見が出て炎上したケースが有る。


7月22日から24日にかけて、フジロックフェスティバルが新潟県の苗場スキー場で開催される。同イベントをめぐっては、同月16日にSEALDsの奥田愛基の出演が発表されて以来、「音楽に政治を持ち込むな」とネットで大きな話題になり、マスメディアでも取り上げられた。

フジロック「音楽に政治を持ち込むな」問題のバカらしさ~歴史を紐解けば、「音楽と政治」は切っても切れない関係なのに(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社


 なぜ、こういった事が起きるのだろうか?それは視聴者が、エンタテインメントとしての側面でしかアートを捉えてないというのが大きい。アートが自由であれば、思想、宗教、哲学といったものからも自由でなくてはならない。このため、その作品に政治色、宗教色、また閲覧者とは違った倫理観が込められていたとしてもそれを制限することは基本的にやってはいけない。

それらを理解したうえで好きか嫌いかは閲覧者にゆだねられるべきだろう。

「政治色の強い作品は好きではない」といった意見は問題ないわけだ。

確かに需要と供給の関係から商品価値としてのエンタテインメント性は重要になる。したがって商品としての作品にはそれが求められる。しかし、それによってアートとしての環境が歪められるのであれば問題だ。

もし、こういった意識が聞く側にないのであれば、毒にも薬にもならない作品であふれかえる世界になり、世界は停滞する。それでは本来アートが持っている力は発揮できない。その意識の受容を求めるのもアートだろう。

作品とアーティスト自身は別評価

今回、オリンピックの開会式と閉会式は残念な結果に終わった。

どう見てもこれが今の日本の限界なのか・・と悲しくなる。

そこには、演出や音楽家の辞任の問題があって、彼ら自身の作り出す予定だった作品が闇に葬られた経緯から生まれた。私は仕事で何かを受けた時、必ず2次案を準備するのは当たり前として、それが1次案と著しく差があるのであればそんな仕事は受けないが、今回は結果として厳しい内容になった。

他のサイトで、幻の閉会式のコンテなどを見たが、もしそれが実行されていたら、十分に誇れる閉会式になっていたものと思う。

 基本的に作家の人格と作品は別評価であるべきだ。

これは過去のほうが徹底されていたが、情報化社会において、知られてしまうリスクが増大したことでメディアも企業も、アーティスト自身もそれら評価を気にする状況(日本語では忖度って言うよね)に陥ったが(昔は、私が知っているアーティストで人格円満なひとなんてほとんどいなかった・・)それによって作品発表の機会すら奪われるのは問題だ。

先に「作家の人格と作品は別評価」と書いたが、それが絶対ではない。絶対ではないが、基本的にその意識がなければ過去の多くの作品すら否定される事態になる。ジェームス・ブラウンがDVなのでもう彼の音楽は使いませんとか言ってたらビートルズでも何でもアウトだ。

また、これは先に書いたアーティストのことが知りたいという部分と矛盾するように見えるかも知れないが、そうではない。

知るべき必要性は、作品価値を判断するためだ。判断すべきは作品価値であって、人格ではない。

  Click to listen highlighted text! アート作品とアーティストとの関係と日本の芸術 評価 (5) 友人のアーティストが「アーティストは望まれていること以外SNSなどに書いてはいけないの?」と、悩んでいたがそんなことはない。 アート作品の場合、それは何かを伝える手段でもあって、その何かはアーティストの心の中から生まれてくる。そのため、そのアーティストの環境や思想や背景なども重要となり、閲覧者はそれを知りたいと思う様になるだろうし、アーティストも伝えたくなるのは自然だ。 特にSNSがこれだけ一般化した今となっては当たり前の事だ。 それに対して日本の芸術の定義では「よい技術、美しい技術」といった、他者より優れている技術、技工、技法などを指すという概念から捉えられている部分が強いため、それら概念に縛られてアートを見てしまう場合もあるだろう。 アート=芸術ではない 実際、技法的な意味だけでアート作品を評価しようとすると「下手くそなのになんで評価高いんだ」といった場面に遭遇する。しかし、技法的に稚拙であっても斬新な表現方法であったり、そこに人の心を動かす何かがあればアートとして成立する。 本来アートと芸術の定義は曖昧だ。 このため、芸術の定義に引っ張られている人にとっては、アートが理解できない。そういった理由もあって、アーティストへの偏見も生まれやすいのが日本だと思う。例えばアーティストに人格的な完璧さを要求するといった部分だが、それは視点が違うだろうと思う。もちろんアーティストだから何してもいいと言うのは違うが、それにしてもSNSぐらい自由に書かせろよと思う。 また、芸術とアートとの間には、相関関係があるため、アート作品として認められたものが芸術作品として認知される事も多い。 それは概念上の現象であって、徐々に芸術の範疇にアートも取り込まれているのだが、人それぞれでの許容範囲は違うだろう。 アート活動の重要性 もともと現象というか世界というものは、多元的に存在している。すなわち我々の立場や思想などで物の価値も変わってくる。それは相対的というより多元的だ。日本人的価値観とアメリカ人的価値観は違うし、さらには個人の価値観も相当違うだろう。そういった中で、新たな価値を生み出しているのがアートだと言える。 アートは単に美的に優れたものだけを指してはない。そこには思想信条なども含め、物事を違った視線で見て新たな価値を作り出す。 もし、アートを含めアート的精神活動が停止したら、新たな視点を失い、我々の文化・経済・思想は停滞してしまうだろう。我々の文化は利便性だけで存在しているのではない。 これは人間にしか出来ない精神活動なのであって、我々のアイデンティティを形作りそれが様々な価値を生んでいく。 コロナ下においてドイツのメルケル首相は、「芸術支援は最優先事項」と語り、その養護に乗り出した。これは前記のアート活動が停滞するとどうなるかをメルケル首相が理解しているからの発言だと思われる。  ドイツは⽂化の国であり、私たちは全国に広がる多彩な催し物(展⽰や公演)に誇りを もっています。ミュージアム、劇場、オペラハウス、⽂芸クラブ、そのほかにもたくさんあります。⽂化的供給が表現しているのは、私たちについてであったり、私たちのアイデンティティについてだったりします。コロナウイルスによるパンデミックは、私たちが共に営む⽂化的⽣活の深い中断を意味します。とくに影響を受けているのは多くのアーティストたちですが、いっそう深刻なのはフリーランスのアーティストたちです。現在の状況は不確かなままです。だからこそ私たち連邦政府、なかでも連邦⽂化⼤⾂モニカ・グリュッタースは、各州とともに関⼼を寄せていることがあります。私たちの⽂化的⽣活が将来にもチャンスがあり、そしてアーティストたちに橋が築かれることです。 芸術支援は最優先事項。ドイツ・メルケル首相が語った「コロナと文化」 それに対して日本ではどうかというと・・・初期の支援策に関してはそれなりに評価できるものであったが、考え方が違うとも言える。現在の支援はその対象がより大きな団体などに移っているような印象が強く、フリーランスのアーティストとへの支援は徐々に縮小化されている。 というより、コロナ以前のアーティスト保護の政策自体に問題があったとも言えるだろう。 アート存在のための自由 アートでは単に技巧的に優れているものだけにその評価が与えらられているわけではないため、その基盤となる環境は「自由であること」になる。この点では海外の方がその許容範囲は広い。  過去行われた音楽イベントでも、「音楽に政治を持ち込むな」といった意見が出て炎上したケースが有る。 7月22日から24日にかけて、フジロックフェスティバルが新潟県の苗場スキー場で開催される。同イベントをめぐっては、同月16日にSEALDsの奥田愛基の出演が発表されて以来、「音楽に政治を持ち込むな」とネットで大きな話題になり、マスメディアでも取り上げられた。 フジロック「音楽に政治を持ち込むな」問題のバカらしさ~歴史を紐解けば、「音楽と政治」は切っても切れない関係なのに(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社  なぜ、こういった事が起きるのだろうか?それは視聴者が、エンタテインメントとしての側面でしかアートを捉えてないというのが大きい。アートが自由であれば、思想、宗教、哲学といったものからも自由でなくてはならない。このため、その作品に政治色、宗教色、また閲覧者とは違った倫理観が込められていたとしてもそれを制限することは基本的にやってはいけない。 それらを理解したうえで好きか嫌いかは閲覧者にゆだねられるべきだろう。 「政治色の強い作品は好きではない」といった意見は問題ないわけだ。 確かに需要と供給の関係から商品価値としてのエンタテインメント性は重要になる。したがって商品としての作品にはそれが求められる。しかし、それによってアートとしての環境が歪められるのであれば問題だ。 もし、こういった意識が聞く側にないのであれば、毒にも薬にもならない作品であふれかえる世界になり、世界は停滞する。それでは本来アートが持っている力は発揮できない。その意識の受容を求めるのもアートだろう。 作品とアーティスト自身は別評価 今回、オリンピックの開会式と閉会式は残念な結果に終わった。 どう見てもこれが今の日本の限界なのか・・と悲しくなる。 そこには、演出や音楽家の辞任の問題があって、彼ら自身の作り出す予定だった作品が闇に葬られた経緯から生まれた。私は仕事で何かを受けた時、必ず2次案を準備するのは当たり前として、それが1次案と著しく差があるのであればそんな仕事は受けないが、今回は結果として厳しい内容になった。 他のサイトで、幻の閉会式のコンテなどを見たが、もしそれが実行されていたら、十分に誇れる閉会式になっていたものと思う。  基本的に作家の人格と作品は別評価であるべきだ。 これは過去のほうが徹底されていたが、情報化社会において、知られてしまうリスクが増大したことでメディアも企業も、アーティスト自身もそれら評価を気にする状況(日本語では忖度って言うよね)に陥ったが(昔は、私が知っているアーティストで人格円満なひとなんてほとんどいなかった・・)それによって作品発表の機会すら奪われるのは問題だ。 先に「作家の人格と作品は別評価」と書いたが、それが絶対ではない。絶対ではないが、基本的にその意識がなければ過去の多くの作品すら否定される事態になる。ジェームス・ブラウンがDVなのでもう彼の音楽は使いませんとか言ってたらビートルズでも何でもアウトだ。 また、これは先に書いたアーティストのことが知りたいという部分と矛盾するように見えるかも知れないが、そうではない。 知るべき必要性は、作品価値を判断するためだ。判断すべきは作品価値であって、人格ではない。 2021年08月13日 参照数: 7375 前へ 次へ Powered By GSpeech

 

 上のスピーカーマークをクリックすることで音声による読み上げが可能です。

Click to listen highlighted text! Powered By GSpeech