他人をジャッジする人は他人からもジャッジされるのよね。

他人をジャッジする人は他人からもジャッジされるのよね。

現代の我々の価値観は多くの環境によって影響を受けている。影響というよりも環境そのものが価値観を作っていると言える時代になった。

それは教育、科学、思想、エンタメなども含まれ、様々なマーケティングの対象となっているとも言えるだろう。つまり、それぞれの要素によってコントロールされている奴隷であると言っても過言ではない。

そういった状況はネットによって更に加速していて、情報に感化された我々は自分で判断したと思うことであっても、実は無意識的に誘導されているかも知れない。

「このアプリいいよね」といった軽い誘導であったり、もっと緻密な思想改ざんなどがあってもおかしくない。広告そのものが思考の誘導であり、それは大昔から存在していたが、情報の画一化とオンデマンド化が進んだことでより強力になっているのは確かだ。

これらの罠に陥らない方法は身体性の獲得以外無いだろう。

つまり、体験だ。

先に書いたSNSでの浅薄な議論や中傷に共通するのが多分この体験の不足だ。理論によって論破してもいいが、感情的な言葉で相手に何かを伝えようとしても意味はない。

私達は不完全だから存在できているとは、昔書いた文章。それに対して自然は完全だと思われがちだが、その自然の中に私達自身が含まれているという感覚を理解するのは難しいかも知れない。

デカルトより我々は、それぞれの存在を細分化して分析することを覚えた。そういった還元主義によって我々は多くの知識を得ることができ物事を組織化することも可能となったが、その根源に横たわる問題に対峙できていない部分も多い。

顕現した要素を再構築する際、一定のベクトルに沿って組み合わせる。それはビジョンとかコンセプトと呼べるものだが、そういった秩序のみで世界ができあがっているのではない。

ビジョンやコンセプトを超えた不可視なエネルギーもまた重要となるだろう。宇宙の多くが正体のわからないダークマターやダークエネルギーによって成り立っているがごとく、我々の世界も秩序と無秩序のハイブリット構造なのだろう。

それはTAOの思想のごとく、表裏一体であって、完全と不完全は共に必要とされる概念になる。従ってそのどちらにも価値はあるのだが、それを俯瞰で見ることのできない人にとっては良いことのみが正しいと思ってしまうのだ。

しかし、それぞれはそれぞれの価値観で動いていて世界はそれらが交差することで存在できる。そしてそれをつないでいるのが「愛」という視点であるということになるのだろう。

それはそれぞれを肯定するためにあって、否定するためのものではない。(さて、ここから理論が飛躍する)

なので、収入が少ないとか、背が低いとか、不細工だからという理由で人をジャッジしてはいけない。それ自体がすでに何者かに埋め込まれた価値基準だと思ったほうがいい。

それで他人を評価する人は、すなわち自分自身も評価される存在だ。「評価」とは愛とは随分かけ離れた概念と言えるだろう。それが理解できたとき初めて人は少しだけ自由になれるのだと思う。


印刷