限界は限界を意識したときに生まれるから、その限界を超えるためには何が必要なのか考える。

限界は限界を意識したときに生まれるから、その限界を超えるためには何が必要なのか考える。

世の中はGWらしいが、ありがたいことにすべて仕事で埋まってしまっていて、またもや明日、明後日は撮影の仕事で苓北町に行く。

キロクマのために天草の写真をもっと撮影したいが、仕事で行くことになると風景写真を撮影する余裕はなかなかないだろう。

普段、撮影の仕事を受けていないのは、自分がプロカメラマンであるという自覚があまりないからだが、それでも仕事で受けた撮影であれば、機材を含めできる限りの準備をする。

それとともにクライアントが望む制作物をどうやって超えるかも課題となる。つまり、要求される仕事以上の価値を提供したいと思うわけで、そのための努力は重要だ。

このため、前回同じクライアントからの撮影依頼でスチルを撮影したとき、ついでに動画もある程度撮影しておいた。依頼された内容は食肉関係の牧場の写真だったのだが、イベントのポスターに使うと聞いていた。となれば、会場で映像も流せたらいいのではないか?と、考えたわけだ。

よって、インタビューの一部などを動画でも撮影して提供したのだ。実際現場では「動画も撮ります」などとは一言も言っていない。

もし、動画も撮るということをその場で言えば、その動画に関しての方針の打ち合わせから、その出来に関しての責任も発生するが、何も言わず撮影した上で、「動画も撮っておきました」といえば責任を負わずとも付加価値として提供することで撮影を補完できる。

それに記録としての価値もあり喜んでくれるだろうと考えた。

この「相手の望む以上のものを提供したい」という思いがどこから来るかというと、それはやっぱり褒められたいからだ・・と、書くと元も子もないが、その根底では「自分の才能を信じていない」というのが大きい。

つまりそれは、自分に対してのハードルが実力より高いところにあるからであって、自分の制作物のどれをとっても「充分だ」と思ったことがないからでもある。

「どれも足りない」という感覚がつきまとう。ただ、だからといって腐るわけではない。足りていない自分を客観的に見ながらもそれを認めているので、「では、プラスアルファで補完すればいいや」と考えるわけだ。

そこまでやって駄目なら駄目で仕方ないし、そのプラスアルファが相手にとって思いの外メリットになることもある。

こういった考え方で仕事をすれば結果が出なくても後悔にはつながらない。だって、「できないものはできないし、それを補おうと努力はしたのでそれ以上は無理」という感覚が生まれる。

こういった事を繰り返しながら徐々にスキルは上がっていく。自己否定の楔に打ち付けられたらそれも不可能なことなのだと思う。


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