守るべきものがあって大人に成れるのかもしれない。

守るべきものがあって大人に成れるのかもしれない。

大人に成るということは自立して責任を負うことでもあるが、それが嫌で子供のままを演じている場合がある。もちろん私もできれば責任から逃れたいし、自分勝手に生きていきたいとも思う。

しかし、残念ながらその思いは、生きている世界のほんの一面しか見えてないから起きるのであって、そんな暮らしを続けていると必ず破綻するのが基本だ。つまり、私たちは他者との関係性の中でバランスを取らない限り安定できない。

目の前の見えていることだけを注視して生きていこうとしても必ず、周りからの様々なプレッシャーに晒され、つらい気持ちにもなるだろう。

「なぜ、その人は私の事を理解してくれないのか」

でもそれは、かなわぬ夢を見ているに過ぎないかもしれないのだ。「他人は私の事を理解してくれない」これは当然のことで、誰も他人の気持ちなど理解できない。だって、考えてみれば自分自身の気持ちさえ分からないのではないか?意識と無意識からなる「私」を私が理解することは不可能だというのが前提なのだと思う。

ただ、それだけでもない。「他者を思いやる」という行為が我々にはできる。それは他者を大切に思い、理解しようと努力するということで、この姿勢さえあれば、理解できなくても許せるのではないかと思う。この許せるようになるためには、独りぼっちでは難しい。やはり他者が必要だ。

簡単に書けば、「誰かの為に頑張る」をすると私という存在自体が薄くなる。そして、守られている存在から守る側への転換ができるといろいろなことが安定する。

例えば女から母になったことで強くなれる場合がある。それは「守るべき存在」があるからだ。私より他の命を大事に思いそのために生きることができれば、私の苦しみは少し減ることとなる。

逆に言えば、これがうまくできないと精神的に安定しない場合も出てくる。ニートになる要因の1つがこの辺にあるのだろうなと思う。守りたい相手がいない場合、意識は自分自身に向くので、自分がやりたいことができないと思った瞬間からすべてが嫌になり、自分の存在すら認められなくなる。

他者との関係性は、テントの支柱を支える縄のように、その支柱をまっすぐ立ててくれるのだ。

ただ、守るべき対象があったとしても、それが人間ではないモノであった場合、インタラクティブ性がないために一方的な関係となる。そしてそれは、オタク的な偏愛と言うものになっていく。その結果より自閉的な方向に傾く。

実際、モノへの偏愛がある人は大変だ。

人間関係はめんどくさい。面倒だからこそそこから離れたい気持ちは理解できる。理解できるが、その面倒な人間関係を遠ざけてしまえばやっぱり、偏った愛の中でしか生きられなくなる。

この人間関係性の希薄さが現代社会における様々なことに影響していると言うのは確かだと思う。