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誕生日に思う素晴らしい人生

誕生日に思う素晴らしい人生

今、この時間を生きていて、「人生って素晴らしい」と、言い切る方が沢山いたらいいなと思う。

今朝方、元妻から誕生日のお祝いメッセージ頂いたが、その返事として「素晴らしい人生おくっています」と、書いたら「そう言い切れるところが素晴らしい」と返ってきた。

で、この「素晴らしい人生」と「素晴らしくない人生」の分かれ目ってどこにあるんだろうと自分なりに考えてみた。

人生が素晴らしいと感じ始めた時期

時間軸から言えば多分、大学を終え実家に戻り、音楽を始めた頃からだ。

それによって、「私の人生を生きる」が始まったと言える。

それまでの私は、一般的な人々と同じ様に、社会によって用意されたレールの上を走っていた。学校に通って、実家の写真を継ぐ。それが「当たり前の人生」として目の前にあったし、それ自体自分の望むことだと思っていた。

しかし、他でも書いたように失恋をきっかけに、再び、生き方を考えた直す機会があり、これまでの生活や幸福というものが他者から与えられた価値によって成り立っていたと言うことに気づいた。

つまりは、今自分がやりたいことって本当に望んでいることなのか?という自分への問いが膨らみ、もう一度やりたいことをやってみようという気になった。

そうして、敷かれたレールから脱線してやっと「私の人生」は始まったといえる。

私の価値あなたの価値

生まれてからしばらくすると、私たちは、他者から評価を受けはじめる。

あの子は可愛い、あの個は頭がいい、あの個は気が利いている、あの子は優しい・・・など、など、多くの評価が行われる。それ自体は当然起きることであるが、それらは社会的な位置を確定するのにも使われる。

例えば、これら価値によって出来る仕事も変わり、生涯給与にも影響が出るだろう。さらには恋愛などの人間関係にも影響が及び、当然、自己肯定感も変わってくる。しかし、そういった価値とは、他者からから見た相対的「価値」なのだが、やがてそれは「私自身の価値」だと私自身が感じ始める。

そこでこういった事が起きる。

例えば小学校時代の通知表の成績でで5段階評価の2しかもらったことない私は、自分には音楽の才能はないと思っていた。

しかし、一旦他者評価を無視し、さらには自己評価も無視、「音楽なんてできない」から「何はともあれやってみよう」に意識を変えた。

「音楽の才能なんかあるはず無いのにそんな自分が音楽作っていいのか?」「作ったものをけなされたら傷つくし」などなど、様々なネガティブな思いはあったが、全て無視。「とにかくやってみて恥かいたら恥かいたでいいじゃん」そうやって、自分なりの音楽の作り方ややり方を試した結果、バンドを組んで日本各地でライブしたり、TVCMの音楽制作の仕事したり、挙句の果てには音楽大学で教鞭をとることになる。

この評価からの逃走は、なかなか難しいだろう。

分相応な暮らし、社会や家族から守られている暮らし

常識的観念からそういったものの求心力は強い。それらに支えられながら安心して暮らすことを、親だったり友人などの周りも望む。

そこで、社会的保護を実現するために必要なのが全体の中での各自の地位(位置)であり、その地位を確定するのが「他者の評価」ということになる。

ピラミッド状のシステムのなかで、私の相対的場所がわからないと保護機能は機能しないし、ヒエラルキー構造のシステム(ピラミッド型システム)に従属させる為の評価は重要だ。少し簡単に書いてみよう。

  「あなたはこの社会の一部の歯車になってね。そのために評価するのでそれ沿って役割を負ってください、そうしたらみんなで守ります」

これが前提だろう。 

人生を取り戻す

しかしこの「評価」され、役割を決められてしまうという状況が問題なのではないか?

もちろん、他者から見たあなたの価値は、「私」を理解するのに参考にはなる。そういった側面が自分にあると思ってもいいだろう。しかし、それはあなたのほんの一面でしか無い。なぜなら、私達には多くの面が存在していて、他者というのは、その表面的な部分しか捉えられない。なにしろ、自分自身で自分が理解出来るということすら幻想だ。

よって、他人に自分の価値を決められ、その中で満足していても「素晴らしい人生」と呼ぶのは難しいかもしれない。

そういった中で、この評価システムが機能して、それぞれの生きる道を提示されそれに沿って生きている人が大多数を締めているのには理由もある。すべての人が自律的に自分の人生を開拓するというのはありえない状況だし、守られた社会構造の中で地道につつがなく暮らしていても、それはそれとして十分な満足も得ることが出来るだろう。

問題はそうではない場合の選択肢もあるということが理解できないほど従属性の高い子どもたちや大人を作り続けてきたこの日本という国なのだろうと思う。

だが、そういった評価に対して正しいスタンスで受け止めることができれば、私達の能力は飛躍的に拡大するし、「自分の人生を取り戻せる」とも、言えるだろう。

正しいスタンスとは「他者から評価は絶対的なものではなく、全体やその集団にとって都合の良い価値基準によって作られている」という内容だ。そんな評価なんて捨ててしまえ!

その結果、過分で不相応な事ができている今をもって、私の人生はやはり素晴らしいといえる。

SNSなどで誕生日のお祝いのお言葉など頂き大変感謝しています。ありがとうございます。

  Click to listen highlighted text! 誕生日に思う素晴らしい人生 評価 (0) 今、この時間を生きていて、「人生って素晴らしい」と、言い切る方が沢山いたらいいなと思う。 今朝方、元妻から誕生日のお祝いメッセージ頂いたが、その返事として「素晴らしい人生おくっています」と、書いたら「そう言い切れるところが素晴らしい」と返ってきた。 で、この「素晴らしい人生」と「素晴らしくない人生」の分かれ目ってどこにあるんだろうと自分なりに考えてみた。 人生が素晴らしいと感じ始めた時期 時間軸から言えば多分、大学を終え実家に戻り、音楽を始めた頃からだ。 それによって、「私の人生を生きる」が始まったと言える。 それまでの私は、一般的な人々と同じ様に、社会によって用意されたレールの上を走っていた。学校に通って、実家の写真を継ぐ。それが「当たり前の人生」として目の前にあったし、それ自体自分の望むことだと思っていた。 しかし、他でも書いたように失恋をきっかけに、再び、生き方を考えた直す機会があり、これまでの生活や幸福というものが他者から与えられた価値によって成り立っていたと言うことに気づいた。 つまりは、今自分がやりたいことって本当に望んでいることなのか?という自分への問いが膨らみ、もう一度やりたいことをやってみようという気になった。 そうして、敷かれたレールから脱線してやっと「私の人生」は始まったといえる。 私の価値あなたの価値 生まれてからしばらくすると、私たちは、他者から評価を受けはじめる。 あの子は可愛い、あの個は頭がいい、あの個は気が利いている、あの子は優しい・・・など、など、多くの評価が行われる。それ自体は当然起きることであるが、それらは社会的な位置を確定するのにも使われる。 例えば、これら価値によって出来る仕事も変わり、生涯給与にも影響が出るだろう。さらには恋愛などの人間関係にも影響が及び、当然、自己肯定感も変わってくる。しかし、そういった価値とは、他者からから見た相対的「価値」なのだが、やがてそれは「私自身の価値」だと私自身が感じ始める。 そこでこういった事が起きる。 例えば小学校時代の通知表の成績でで5段階評価の2しかもらったことない私は、自分には音楽の才能はないと思っていた。 しかし、一旦他者評価を無視し、さらには自己評価も無視、「音楽なんてできない」から「何はともあれやってみよう」に意識を変えた。 「音楽の才能なんかあるはず無いのにそんな自分が音楽作っていいのか?」「作ったものをけなされたら傷つくし」などなど、様々なネガティブな思いはあったが、全て無視。「とにかくやってみて恥かいたら恥かいたでいいじゃん」そうやって、自分なりの音楽の作り方ややり方を試した結果、バンドを組んで日本各地でライブしたり、TVCMの音楽制作の仕事したり、挙句の果てには音楽大学で教鞭をとることになる。 この評価からの逃走は、なかなか難しいだろう。 分相応な暮らし、社会や家族から守られている暮らし 常識的観念からそういったものの求心力は強い。それらに支えられながら安心して暮らすことを、親だったり友人などの周りも望む。 そこで、社会的保護を実現するために必要なのが全体の中での各自の地位(位置)であり、その地位を確定するのが「他者の評価」ということになる。 ピラミッド状のシステムのなかで、私の相対的場所がわからないと保護機能は機能しないし、ヒエラルキー構造のシステム(ピラミッド型システム)に従属させる為の評価は重要だ。少し簡単に書いてみよう。   「あなたはこの社会の一部の歯車になってね。そのために評価するのでそれ沿って役割を負ってください、そうしたらみんなで守ります」 これが前提だろう。  人生を取り戻す しかしこの「評価」され、役割を決められてしまうという状況が問題なのではないか? もちろん、他者から見たあなたの価値は、「私」を理解するのに参考にはなる。そういった側面が自分にあると思ってもいいだろう。しかし、それはあなたのほんの一面でしか無い。なぜなら、私達には多くの面が存在していて、他者というのは、その表面的な部分しか捉えられない。なにしろ、自分自身で自分が理解出来るということすら幻想だ。 よって、他人に自分の価値を決められ、その中で満足していても「素晴らしい人生」と呼ぶのは難しいかもしれない。 そういった中で、この評価システムが機能して、それぞれの生きる道を提示されそれに沿って生きている人が大多数を締めているのには理由もある。すべての人が自律的に自分の人生を開拓するというのはありえない状況だし、守られた社会構造の中で地道につつがなく暮らしていても、それはそれとして十分な満足も得ることが出来るだろう。 問題はそうではない場合の選択肢もあるということが理解できないほど従属性の高い子どもたちや大人を作り続けてきたこの日本という国なのだろうと思う。 だが、そういった評価に対して正しいスタンスで受け止めることができれば、私達の能力は飛躍的に拡大するし、「自分の人生を取り戻せる」とも、言えるだろう。 正しいスタンスとは「他者から評価は絶対的なものではなく、全体やその集団にとって都合の良い価値基準によって作られている」という内容だ。そんな評価なんて捨ててしまえ! その結果、過分で不相応な事ができている今をもって、私の人生はやはり素晴らしいといえる。 SNSなどで誕生日のお祝いのお言葉など頂き大変感謝しています。ありがとうございます。 2022年12月01日 参照数: 961 前へ 次へ Powered By GSpeech

 

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