2015/12/13(日) 00:00

インターネットの登場とともに「本」を読まなくなった。

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インターネットの登場とともに「本」を読まなくなった。これは私に限ったことではないだろう。しかし、小学校の高学年から本を読むという快楽に気が付き、中高大と暇さえあれば本を読んでいた。そのうち速読が自然に出来るようになって、一日3冊程度は読み込んでいた。

学校に居る時間に1冊、戻ってから2冊。そんなわけで、とにかくその当時の娯楽の中心は読書だった。今で言うならネットゲーにはまる子供達と大差はない。

中学校の図書室の本はあらかた読んでしまい、世界文学全集から始まって、終いには自然科学の辞書だとか、もう、乱読の極みだった。しかし、如何せん、文学というものはある意味子供にとってはリアリティーが薄い。渡邉淳一の小説を読んだとしても意味など分からない。

その中で出会ったのが筒井康隆、豊田有恒、小松左京、星新一といった小説家であり、時をかける少女だとか見えないものの影などワクワクしながら何度も読み返したものだ。

本における知識とネット上の情報による知識の差は、シーケンシャル(連続的)かランダムかにある。前者はストーリー的展開で理論や概念や物語が進行していくのに対して後者は情報同士の関係性が薄く、局所的分断された情報として蓄積される。

知識は、そのベースとなる概念があって智慧へと昇華するが、局所的情報から概念自体を再構築するのはとても難しい。

やはり重要なのは情報の関係性の方なのだ。

実際、我々が物事を記憶する場合、それら単語の意味は単独で存在しているのではなく、関係性に依って成り立っている。そのため、それがその単語の意味を規定するが、その単語が別のものに置き換わったとしても、意味を覚えることが可能だ。

これら現状において、何が起きているか?

これは以前から書いていたことではあるが、共通認識としての単語の意味の崩壊や共通言語の崩壊を意味する。

同じ日本語を喋っているのに意味が伝わらない。

そういった状況、決して妄想ではないと考えている。

この記事は 658 回読まれました 最終修正日 2016/01/15(金) 17:25
浅川 浩二

自己紹介が難しい。あまりに色んな事をやりすぎてアイデンティティーが希薄になってしまった。何が出来るの?って聞かれると答えに窮する。ただ言えるのは、「友だちになれば便利な人だよ」という感じかな。